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言葉が通じない

そう、五月三十日。今から二週間前の、五月三十日です。
僕は彼の待つ河川敷に出かけました。生憎の雨でした。
何をしにって?兄さんの手紙を彼に渡すためですよ。
可哀想に、彼は僕らの国の言葉が理解出来ないのです。
そしてとても恥ずかしがり屋なのです。
折角、碧色の綺麗で大きな瞳をしているというのに、彼は兄さんを見ようとしない。
だから兄さんが何を言っているのか、何を言おうとしているのかすら、分からないのです。
兄さんの方は彼の事を好いているというのに。
しかし手紙なら彼も平気な筈だと、僕は兄さんに手紙を書くことを薦めました。
僕が昔父に買ってもらった辞書を片手に、一晩かかって、兄さんは手紙を書き上げました。

先ほども言いましたが、その日は雨だったので
僕は兄さんから預かった手紙を大事に大事に懐に入れて、走りました。
前髪が雨に濡れて額に張り付いてとても不快だったのですが、
そんなことよりも兄さんの手紙を彼に渡すことの方が大切だった。
だって、彼が諦めて河川敷から居なくなってしまうかもしれないでしょう?
兄さんが一所懸命書いた手紙なのです。読んでもらわなくては兄さんが報われない。
きっと彼も、手紙であれば兄さんの言葉が分かる筈です。
僕はそう信じていました。だから夢中で走りました。

彼は居たのかって?
勿論、居ましたよ。健気にも雨の中、僕を待っていました。
僕に気がついて、彼はとても嬉しそうに笑いました。
金色の髪がきらきらと輝いて、僕はそのとき彼を太陽のようだと思いました。
兄さんもそんな彼だから好ましく思ったのだ、とも思いました。
僕は挨拶もそこそこに、懐から兄さんの手紙を取り出して、彼に渡しました。
彼はとても驚いたようですが、素直に手紙を受け取ってくれました。
ところが残念なことに、手紙が濡れて文字が滲んでしまっていました。
彼は手紙を読むことができなかったのです。

そう。そうだ、彼は兄さんの手紙が読めなかった。
どうして今まで忘れていたんだろう。兄さんに言って、もう一度手紙を書いて貰わなければ。
彼は兄さんの言葉がわからないのです。彼に兄さんの言葉は通じない。
でも僕には兄さんの言葉が分かるし、彼の言葉も僕なら分かる。
兄さんは彼を必要としています。その為には僕が必要でもあるのです。
だから、僕を早く家へ帰して下さい。いつごろ帰れるのですか。いつですか。いつ。
兄さんもきっと僕を心配しています。彼も河川敷で今日も僕を待っている筈です。

え?……はい。五月三十日、ちょうど二週間前の五月三十日。嫌な雨でした。
ズボンがぐっしょり濡れてしまって、本当に不快でした。
――――――――
誠二君の様子は大分落ち着いてきた。
収容時に比べれば、こちらの質問を理解し、それに答えようとする意思が見られるようになった。
しかし、何を言っているのかは未だ不明瞭な点が多く、事実との齟齬も見受けられる。
会話の中に何度も出てくる「彼」とは件の留学生のこと、「兄さん」は陽一郎君のことだと思われるが、
そもそもあの留学生は陽一郎君の同窓生であり、更に陽一郎君は、学校で語学の勉強をしていたと聞く。
二人の会話が不可能だったとは思い難い。
もし互いの言葉が通じないとすれば、それは誠二君と留学生の話と言われる方が自然だが。
現時点で、これ以上に話が及びそうになると途端に不安定になるため、
当日のことついて深く聞き取りをするのはもう少し時間を要するであろう。
今はまだ、彼の話をゆっくりと聞いてやる期間であると考えている。

陽一郎君が留学生と共に遺体で見つかって、父親である貴殿の悲しみは今も深かろう。
また、男二人で入水自殺したなどという噂話に晒され続けた心労もいかばかりかとお察しする。
しかし、もうすぐ陽一郎君の一周忌だ。一度気持ちを切り替えて、此方へ足を運び、
貴殿も誠二君と話をしてみてはどうだろうか。碌な会話も出来ないと端から諦めず。
あれだけ慕っていた最愛の兄が亡くなったのだ。誠二君の苦しみも、理解してあげて頂きたい。
ご連絡をお待ち申し上げる。


追伸。
気になっている事がある。事件当日の天気だ。
二人の遺体が見つかった一年前の五月三十日だが、降雨の記録はない。快晴だった筈である。
彼の妄言だと割り切ってしまえばそれまでだが……