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二人暮し

ただいま、という言葉は酷く馴染みが薄かった。おかえり、という言葉は酷く座りが悪かった。
どこか照れくさくて、続くただいま、の言葉を口にしきれない。そんな時、いつだって目の前で彼はまだ慣れないんだ?と笑ってくれた。

「おかえり、智」
とはいえ、時間が不規則な仕事をしている夏樹が常に智の帰宅する時間に部屋にいる訳ではない。
逆も然りで、だからたまたまタイミングが合う度に智は玄関で彼の靴を見ては少しだけ口端を上げる。無意識の内に。
そしてむずがゆくなる。自分を迎えてくれる人がいる事に、そしてそれが夏樹だという事に。
「あ。……智、また困ってる?」
「いや、驚いただけだって……ただいま」
子供みたいな顔をして楽しそうに近付いてくる夏樹に、智は微笑む。一体この時間を何と呼べばいいのだろう。未だに智にはわからなかった。
幸せ、という一言ではとても足りる気がしない。
「だって、朝俺と変わらないくらいに出たじゃん。珍しくない?」
「うん、運良く早く終わってさ」
そっかあ、と智は笑う。単純に嬉しかった。
「だからさ、飯作って待ってたんだ。食おうよ。俺腹減ってんだ」
ほら早く、と近付いた夏樹からふわりと甘い匂いが掠めた。ゆっくりと気付かれないように息を吐き出した後、智はうんと言葉少なく頷いた。

夕食をとって、シャワーを浴びた。髪を拭きながらリビングへ戻ると、夏樹は膝の上にノートパソコンを乗せてその画面に見入っていた。
おそらく持ち帰りの仕事なのだろう、モニターを見つめる彼の視線は真剣だ。智はその表情に一瞬見惚れる。
「夏樹、風呂入る?」
あいたよ、と一言。すると真剣な目が緩やかに温かくなって智を見た。
「んー、ここまで終わったら」
智は夏樹の横、少し距離を開けて座った。真剣な顔で仕事をする夏樹を邪魔したくない気分が半分、少しでも傍にいたいなんて気持ちが半分。
まだ少し慣れない同居に、戸惑いと嬉しさは半々だ。まだ少し濡れている髪からこめかみへ、雫が垂れ落ちてゆっくりと顔の輪郭を辿っていく。
キーボードを叩く硬い音が聞こえる。またふわりと、鼻腔を擽る匂いに、智は振り切るように緩く頭を振った。
「うわ、どーしたの」
雫が飛び散ったのか、夏樹が驚いて智を見た。
「あ、いやっ、なん、でもない」
俺、変だね、と笑って誤魔化す智に、夏樹がまるで見透かしているように笑う。
それは智の勝手な思い込みでしかないかもしれなかったけれど、思わず赤くなった頬を隠す為に智はタオルで髪を拭くふりをして顔を隠した。

「智、俺風呂は入ってくるけど?」
声をかけられるまで智はぼんやりとタオルを頭に引っ掛けたままでいた。声をかけられて初めて自分がぼんやりとしていた事に気付く。
「え、あ、うん」
冷静を装って夏樹の方を見ると、夏樹は智をじっと見つめていた。心臓が跳ね上がる。
優しいけれど芯の強そうな目が、窺うようにこちらを見るのは智にしてみれば心臓に悪い。
「どーしたの、智」
智の開けた距離を夏樹が軽く座りなおして縮める。覗き込むようにして下から夏樹の目線がゆっくりと智を見上げた。
「な、なんでもないって!」
「ふーん?」
なーんかさっきから変なんだよなあーと夏樹が言うのも当たり前だ、と智は自分の落ち着かなさを思い起こして思わず溜息を吐きたくなる。
その間にも、まとわり付くようにふわふわと柔らかな匂いが漂う。普段ならあまり気にならない筈だと智は自分に言い聞かせた。
偶然のタイミングで、偶然にこうして一緒にいる時間が長くなればなるだけ、最近は自分がどうしても夏樹を意識しすぎる事に気付いていた。
以前からそうだったけれど、暮らし始めて例えば朝起きた時に、眠る時にいなかった筈の夏樹が隣にいた、ちょうど互いの出かける時間と帰って来る時間が交差したり、
そんな風にして顔を合わせたりその短い時間に互いに触れる事で感じるのはただ優しい充足感だけで、今こうしている状態の気分とは少し違う。
「いや、その……夏樹、さ、香水変えた?」
「え?香水?」
唐突な問いに夏樹は目を幾度か瞬きする。智はそれだけでもう既に口にした事を後悔しはじめたのだけれど、それでもなんとか言葉を続けた。
「なんていうか、なんか甘い匂いするからさ…」
最後の方は口の中で漸く呟くようにして言うと、智はやはり夏樹の顔が見れなくなって顔をそらした。
けれどそれを夏樹の手が阻んで、ゆっくりと自分の視線とあわせるように顔を向きなおさせる。
「なつき、」
「智からも甘い匂いするけど?」
首を傾げるようにして、夏樹が囁く。耳元に鼻先が擦れて智はその感触を瞬時に肌を震わせた。心臓に悪い。
「ていうか、これシャンプーの匂いだと思うし」
「シャンプー?」
「だから、智も俺と同じ匂いしてるよ」
ほら、と夏樹は耳元に触れていた顔を智の髪に押し付けた。そう言われれば、そうなのかもしれない。この間、シャンプーが切れたから夏樹が買ってきたばかりだ。
同じ甘い香りを纏わせた夏樹と自分。その香りに右往左往しているなんて酷く間抜けだ。
「俺、うわ…なんか勘違い……ていうか思い込みしてたかも…」
さすがに隠せない程真っ赤になった顔を両手で覆いながら智が呟くと、夏樹の手がぽんぽんとその頭を優しく叩いた。
「智、結構思い込むたちだもんなー」
立ち上がり、もう一度夏樹は智の頭に手を置く。柔らかな体温がじわりと染み込む。
「じゃー俺、風呂入ってくる」
夏樹がそう言って鼻歌を歌いながらリビングから消えた。智は頭を抱える。慣れてない。本当に、慣れてない。心臓がまだ飛び出しそうだ。
「あー、もー俺、心臓持たない……」
慣れていない、おかえりもただいまも、同じ香りを纏う人がいる事も。それが想っている人だという事も。
幸せの一歩先。
それを表現する言葉を智は未だ持っていない。だからただ頭を抱えてソファーに体を預けた。