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堕ちたヒーロー

あの人は今起きているだろうか。それとも潰れて寝たふりをしているだろうか。
アパートの階段の音を響かせながら、勝ちも負けも無い不毛な賭けをする。
合い鍵を使って部屋に入れば鼻に届くのは強い酒と煙草の匂い。煙が滞って視界が白く濁ったような錯覚を覚える。
その中で締め切ったカーテンからこぼれる唯一の光がとても眩しい。
この部屋に来ると、僕はいつも必ずどこかが痛くなる。
「……換気をしてください。片付けを、始めますから」
声に反応して床に転がる塊がもぞもぞと動いた。
ゆっくりと、まぶたが開かれる。目が合っても、その瞳は何の起伏も示さなかった。
「……ああ、おはよう。どうだ? 今日は勝ったか?」
「もう夕方になるところです。言われなくても、あなたの名前を背負って負けるわけにはいきません」

黄泉将軍との一戦で相棒を失ってから、この人は変わってしまった。
煙草を吸って、飲んで、寝て、ただそれだけの生き物に成り下がった。
あのとき三人に何があったかは聞いていない。聞かせない、雰囲気があった。
僕は何も知らないまま、彼の帰る場所を守り続けている。

「あぁー……。体がいてえ。もう年かなぁー……」
「痛いのは硬いところで寝るからです。床で寝ないでくださいって、何度も言ってるでしょう」
僕が最初の報酬で買ったソファーは、一度も使われるのを見ないままに、ヤニでくすんだ色をしている。
「もしくは運動不足じゃないんですか? もう一度ヒーローでもやって、体動かした方がいいですよ」
「まーたそれかあ……。お前も飽きないね」
「あなたにお世話になったって、お礼参りに来る人がとても多いんですよ。後輩はいい迷惑だ。
 少しでも責任を感じるなら手伝ってください」
「もう、俺が手伝う必要も、お前がここに来る必要も、どこにもないだろう?」
「まったくなにを馬鹿な事言ってるんですか」
「まあ聞け」
いつもの冗談の延長かと思って、その一言に気圧された。酷く真剣な声だった。

「この二年間、立派に戦ってきただろ。
 お前はもう、一人前のヒーローで、男だ。」
少し照れたような表情。嫌な予感がする。
「俺の名前と精神はお前が継いでくれた。それだけで、俺はもう充分なんだよ」
「……勝手なことを言わないでください」
自分が今どんな酷い顔をしているのか、見なくても分かる。
何を、何を勝手に満足しているのだろうか。この男は。
「あなたに取って代わろうとしたことなんて、僕は一度もありません。僕が、
 僕が本当になりたかったのは――!」
その名前を言おうとしたとき、彼の顔を見てしまった。
僕の急変にただただ呆気にとられている。
この人は、本当に本当に何もわかっちゃいないんだ。
「……とにかく、僕はあなたの復活を待ってます。また来ますから、それまでに生活習慣だけでも少しは改めてください」
「おい」
ドアノブにかけた手が止まる。帰り際に声をかけられるのはこれが初めてだ。
「お前、何かあったのか?」
「――今さら、何もありませんよ」
ばたんと扉を閉める音が、少しでも冷たく聞こえればいいと思った。

最後の段を降りきったところで血の気が引いた。僕は何を言おうとしたんだ?
体が震え、恐ろしくなって走り出す。空き缶の入った袋が、がらがらとがなりたてる。
危なかった。
危なかった。
本当に最低になるところだった。
僕はあの人や彼の、誰かの精神を受け継げるような立派な人間じゃない。
こんなにも弱いから、簡単に捕まってしまう。
赤信号でようやく足を止める。じわりと足元の影が広がった。
(あいつはお前に甘えてる。甘えてるくせに、どれだけ大切な存在かわかっていない。そうだろう?)
(俺のもとに来い。二代目。そうすればあいつは――)
黙れ!と一喝してもどこにも届かない。耳を塞いでも声は心の底から滲むように湧いてくる。
助けてください、ヒーロー。
あなたさえ隣にいてくれれば、僕はこの呪縛を振り切れるんだ。