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シナモンの効いたアップルパイ

夜8時。長丁場の打合せを終え社に戻る。まだ書類が残っているからと足早に受付カウンターを通り過ぎようとしたところで、高々と袋を掲げて呼び止められた。
「中条さん、差し入れですよ!佐治さんから!」
佐治。死ぬほど忙しい時に、あいつの相手なんてしていられないのに。
「湯本さんごめんね。あいつすぐ帰った?」
「ええ、これだけ預けて、すぐお帰りになりましたよ」
「そう」
渡された紙袋を見る。どこかで見た袋だが、一体どこだったか。
「そうそう伝言が」
「え?」
「『温かいからすぐ食え』だそうです」
「…すぐ、ね」
残りの仕事の時間もあったので、湯本さんへお礼を言ってからその場を離れ、エレベーターホールへ向かった。
既に数人が乗り込んでいたエレベーターにちょうど乗り込むと、誰かが押したのか、自分の行く階にも止まるようだった。
事務所に戻ったらまず今日の議事録と書類を整理して、と考えていたところで、ふと何かの香りが鼻をつく。
狭いエレベーター内に充満する余りに濃い香りに、一体誰の香水かと浅く吸い込んでみると、どうにもそれは自分の手元から出ていた。
佐治の差し入れか!
気付いた直後、柔らかな音と共に目の前の扉が開いた。目的階だ。「すみません」と言い残していち早く降りる。
自分のデスクへ向かう途中も、擦れ違う数人が振り向くほどふわふわと強烈な香りが辺りを舞っていた。
暖かいからと言っていた、そのせいもあるのだろう。

「ああもう!」
しばらくの間デスクで小さく憤っていると、「お疲れ」とカップの置かれる音がした。隣の席の同僚か。
「どうもな」
呟いて頭を上げると、想定外の色の液体が、カップに注がれていた。
「…なにこれ」
「お茶」
「紅茶じゃん」
「だってアップルパイだろ、それ。コーヒーより紅茶のほうがいいかと思って。淹れなおそうか?」
自身のタンブラーに口をつけたままで同僚が答えた。
こういう男はモテるんだろうなと意味もなく毒づきながら、「や、いい。ありがとう」とだけ返した。
置いたままでは香りが消えない。仕方ないので同僚の入れた紅茶と佐治の差し入れで一度休憩してしまうことにした。

休憩スペースのテーブルへ紅茶と差し入れを持ち込んだ。袋を開けると、一層シナモンの香りが強くなる。
金曜日の夜だ、殆どの社員は帰っているが、それでも人はいる。迷惑には違いない。
「ったくもう、なんだってこんなものを」
立ち込めるシナモンと林檎の香りを嗅ぎながら、横に置いた紙袋を見た。
そうだこれは、佐治の好きな店じゃないか。
わざわざ遠回りしてまで買って、届けに来たのか。
バイクに乗ってこれを届けたであろう佐治の姿を思い浮かべると、ほんのりとセンチメンタルな気持ちが湧き上がる。
そういえばここのところ、忙しさを理由に会っていない。どころか電話でさえまともに話していない。
「いやいや待て待て、だからってなんでわざわざこれなんだよ。シナモン好きなのは佐治だろ!」
ああ流されるところだった。
単純に佐治の好物じゃないか。きっと自分が買ったついでだ。
そう思いながらアップルパイを口へ運んだ。
シナモンの香りがふわりと鼻を抜ける。嗅いでいただけの先ほどまでとは全く違う感覚だ。
「うめー」
ふう、と一息ついたところで、また佐治を思い出す。
「あいつ馬鹿みてえに好きなんだよなー、シナモン。なんにでもかけてさー」
言いながら大き目の林檎にフォークを入れたところで、佐治にしてやられていることに気がついた。
「あ、あー…あーちくしょーそういうことかよー」
携帯を取り出し電話をかける。
相手は佐治だ。着信履歴の少し下の方。
きっと、いや絶対、「恋しくなっちゃった?」だの「俺のこと思い出しちゃった?」だのとふざけたことを言うに違いない。
きっと、いや絶対、電話の向こうにも、甘い香りを漂わせながら。
出たら最初になんと言ってやろうか。
「あー、佐治、早く出ろー」
アップルパイがなくなる前に、シナモンの香りが消える前に。
早く、早く出ろ。