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満月手前

「足りないなぁ」
車窓の外を見上げて木原がぼやいた。
白けた宵闇に星と月。電信柱の切っ先に、千切れた薄雲が引っかかっている。
下には建造物と人工の光が群をなして、一通り揃ったいつもの夜だ。
「何が」
「月。満月にはまだ少し足りないでしょう。せっかく晴れてるのに」

信号が青に変わって、静かに車が走り出す。
横に首をひねって、ハンドルを握る部下をちらりと見遣った。
鋭角的に整った横顔は成程、いくらか不満げな色を帯びている。
何百年に一度の天体ショーではないのだ。
幾望だろうが満月だろうが、眺める分にはたいした違いもないだろうにと思う。

どうにも不可解な男だというのが、二年半組んできた部下に対する感想だ。
冷静なようで、どこかしらズレている。有能なことは認めるが、時々突飛だ。
この間など、酔っ払った勢いか何かでキスされた。
取り押さえられて口に噛みつかれたという方が実感に近い。
その上泣きそうな顔で謝り倒されて、一体何事かと一晩悶々としたものだったが、
翌朝顔を合わせた木原は何事もなかったようにけろりとしていた。

肩透かしをくらったようで、何とも複雑な心持ちがしたのを覚えている。
以来、木原の内心については、あまり深く考えないことにしていた。
小難しい顔をして、その実何も考えてはいないのだ。振り回されるだけ損だ。

「別にいいじゃねえか、満月だったら何だっていうんだ。狼男にでも変身する気か」
「狼男は元から狼男ですよ。月が満ちると、男が狼になるんです。あと犯罪が増えます」
「満月が動物を狂わせるってか?」
「まあ、詩的にいえばそんなところですかね。抑制を司る部分の脳機能が多少落ちるんでしょう」
「へぇ。お前みたいな堅物にはなんら影響なさそうだけどな」
はは、と木原はほぼ真顔のままで笑った。器用なやつだ。
「明日もこのくらい綺麗な月が出てたら、僕も狂った犬みたいになるかも知れませんよ」
短くブレーキを踏み込む音がして、些か乱暴に車が角を折れる。
後輪の鳴く音が妙にどきりと胸にこたえて、運転の荒さを叱りつけることも忘れた。
「聞いてるんですか、望月さん」
呼ぶ声が意識の表面を滑って消える。耳慣れた声、見慣れた部下の横顔。
普段と変わらないはずなのに、何か違うような気がするのはなぜだろうか。
俄かに腹の底がざわつく感じがして、無意識のうちに煙草のパッケージを手で探った。