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昔の攻めの結婚前夜

今年の夏に会ったときより少し顔の輪郭が若い彼はベンチで缶コーヒーを両手で持ち冷たい指を温めていた。
黄昏が終わっていく曖昧な光と街灯の明かりがまじりあう中で彼は一人誰かを待っている。
僕には今起きている信じられない事態の全容がすぐに分かった。
ベンチに座る早坂の顎には髭があった。大学の頃の彼には当たり前のことだったし、
社会人になっても変わらなかったそれはもはやトレードマークと言ってもよかったが、
五年前に綺麗にそり落として以来彼は二度と髭を生やさなくなった。
顎鬚を生やした早坂を最後に見たのは彼の結婚前夜だった。

その日どうしても言いたいことがあった僕は、日が暮れる頃に早坂を呼び出した。
彼は急な電話にも快く応じてくれて、彼の家の近所にある公園で待ち合わせることになった。
電話をかけてすぐコートを着ようと立ち上がった僕は、めまいに襲われてその場でしゃがみ込んだ。
仕事の疲れが重なって体調が少しすぐれなかっただけで、出て行こうと思えば何とかできたはずだった。

しかしうずくまって顔を片手で覆った瞬間に、入社して二年目の秋のこと、
風邪をひいた僕のところにやってきた早坂のことを思い出した。
彼の心配が僕にとってどれだけ意味を持つことかなんてちっとも分からないで、早坂は真面目な顔で食事を用意した。
お前なかなか人に頼らないから面倒見れてむしろ嬉しいよ、と彼は冗談っぽく笑っていた。
彼が食器を洗いに行った隙にひっそりと泣いた記憶まで辿り着いて胸が苦しくなった。
僕はもう一度早坂に電話をかけて、仕事の関係でやることを思い出したからまた今度にしよう、呼び出しておいてごめん、と謝った。
早坂は気にしていない風に笑って、じゃあとりあえずまた明日、と言った。
その明日という日は僕にとって忘れられない日になるのだった。

あの会えなかった日、公園で待ってくれていた人の姿が今ここにあって、僕は車道を隔ててその横顔を見ている。
あれは五年前の早坂だ。ちょっと話したいんだけど、と学生時代の友人から電話で呼び出されて、ベンチに腰かけてその男を待っている早坂だ。
短い横断歩道を渡って公園の入り口の前に立った。
あの日の彼に、結婚する前の早坂に会えるとしたらきっと言うのに、と何度も思い描いた光景が目の前にあった。

今や僕の身体は悲しみでいっぱいで、心はしくしくと痛むばかりで、それでも足が一歩を踏み出した。
大きな銀杏の木の横を通り過ぎ、ベンチまであと数歩を残すところまで来ると、座っている彼が顔を上げた。
「やっと来た」
唇を噛んだまま僕は何も言えない。早坂のすぐ近くまで歩み寄ってうつむいた。立ち上がってくれた彼の靴が目に入った。
八月に会った時、買ったばかりなんだと早坂が言っていた黒の靴だった。
「お前泣くときちゃんと涙拭かない癖まだ直ってないのな」
我に返って見上げた先で早坂はなんだか懐かしそうな目をして僕を見ていた。
「五年待ったけど今日は言える?」
銀杏の落ち葉が風に吹かれて少し地面を滑った。僕が頬を手でこすりながら頷くと、早坂はにこっとして「待ってて良かった」と言った。