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貿易港そばのグラウンド

あの頃、港町は猥雑で、グラウンドの金網の向こうからは常に湿った風が吹き荒れていた。
グラウンドは四角に仕切られただけのただ広い空間で、古びたバスケットゴールがわびしげに佇んでいる。
幾つものネオンが港に瞬く頃、グラウンドで遊ぶ子どもらは段々とその姿を消していき、最後にはひとりの少年だけが残る。
少年は俺だ。唇を噛みしめている。
燃えるような夕日を、落ちてくる夕闇を、親の仇のように鋭く睨みつけている。

俺が宇宙人と出会ったのは、そんな繰り返しの日常の中だった。
無人のグラウンドに色濃く落ちた影に視線をうつして、俺はいつものように数を唱えている。
ゆっくり百まで数えたら家へ帰ることにしていた。
六十過ぎまで数えたころだったろうか、ふと背後から物音が聞こえた。はっとして振り返ると、ひとりの少年が怯えたように立ち竦んでいる。
年の頃は俺と同じくらいだが、見たこともないほど鮮やかな金色の髪が風に揺れていた。肌の色も発光したようにぼんやりと浮かび上がっている。
俺はすっかり目を奪われてしまって、お前はどこから来たんだと勢い込んで少年に問いただした。
少年はラムネのビー玉の色をした瞳を戸惑って瞬かせながら、金網の向こうの薄ぼけた闇を指差した。
そこにはただ、黒々とした海が横たわり、冷たくなっていく空が広がっているだけだった。
後から考えると、それは日本語の喋れない少年が、自分は異国からやってきたのだという意味のジェスチャーをしたに過ぎなかったのだが、
そのときの俺には彼が空を指しているように見えたのだった。
あいつは空からやってきた宇宙人。そのことを俺だけが知っていた。

実際そんな勘違いは彼が日本語を覚えるころにはすっかり解消されていたのだが、それでも俺にとってあいつは特別な友人だった。
誰もいなくなった後のグラウンドで二人で遊んだ。互いの母国語で冗談を教え合った。俺がもう数を数えることはなくなった。
貿易会社の社長子息である彼にどのような事情があって、遅くまで家に帰らなかったのかは知らない。
その関係は俺たちが中学に進学するまで続いた。

中学に入るとすぐに先輩が絡んできた。しつこく金をせびられて、余分な金はないと断ると生意気だと罵られた。
吐くまで腹を殴られたある日、お前のお袋は淫売だと言われたのでそいつの前歯を折った。
それからは散々袋叩きにされたが、一度も謝らなかった。誰も助けてくれないのはわかっていたので自分で頑張ることにした。
一本の腕を折られたら二本の腕を折った。鉄パイプで殴られたらその拳を叩き潰した。
お前の親父は屑のろくでなしだと言われたが、それは本当のことなので殴らなかった。
気が付いたら俺は一端の不良だった。だから街であいつとすれ違っても、もう声をかけることもしなかった。
あいつの視線が気遣わしげに俺を追っていることには、知らない振りをした。
晴れてあいつは違う世界の住人、宇宙人になったのだ。

今はもう、あいつはこの町にいない。地元の私立中学を卒業した後は生まれた国に帰ってしまった。
俺はといえば、高校へは行かず港にたくさんあるバーの給仕や用心棒をして糊口をしのいだ。
その頃母親は男と三度目の失踪をし、父親は酒をしこたま飲んである朝動かなくなった。
停滞した日常の中、気性の荒い船乗りや外国人に揉まれて腕っぷしだけが強くなっていった。
ときには強い酒で喉を潤し気安い女たちと戯れたけれど、それはそれでつまらないことだった。

俺が今になってあいつのことを思い出すのは、彼が去り際に投げつけた言葉のせいなのだ。
あのとき、いつものように無視をして通り過ぎようとする俺の腕をあいつは痛いほど掴んで引き留めた。
「俺は国に帰らなくてはならない」
何かを確かめるように、あいつは慎重に言葉を紡いだ。
あいつの瞳は変わらずに綺麗なビー玉のままで、俺はおそらくそのせいで身じろぎもせず続きを待った。
けれどじっとあいつの瞳を見ていると、昔にはなかった意志の光が静かに宿っているのがわかった。その目で強く俺を見据えてあいつは言った。
「今の俺にはお前の側にいる力がないけれど、いつか俺が戻るまで待っていてくれないか」
「嫌だ」
考えるより先に言葉が口をついて出た。何らかの予感が心臓を突いて全身の血を熱くさせていた。
何かを言わなくてはならなかったが、それがなんなのかは自分でもわからなかった。だから拒絶した。
俺は嫌だ。もう一度はっきりと低い声で言うと、あいつを突き飛ばして俺は逃げた。

そしてこんな風に感傷的な気分になるのも、明日になったらあのグラウンドが立ち入り禁止になると聞いたからだ。
なんでも、どこぞの若い実業家が買い上げていったらしい。何に使うのかは知らないが、おそらくグラウンドは潰されてしまうのだろう。
正直心残りではあるけれど、それでなくてもここ数年この辺りでは開発が進んでいる。
海にほど近い寂れた土地が対象となるのは、どちらにせよ時間の問題だっただろう。
俺はふと思い立って、仕事前にグラウンドに足を向けることにした。

茜色に燃える空に、何の因果か大人になっても俺はひとりきりだった。
無人のグラウンドに立って目を閉じると、まぶたの裏に血のような赤が張り付いている。
宇宙人はいない。
外国人は行ってしまった。
約束は存在しない。
成長した俺だけがここに取り残されていた。
不意に、哀しみが暴れだす。どうしようもない寂しさが胸に突き刺さって痛む。俺は歯を食いしばり、ゆっくりと数を数え始める。
昔のように百まで数えたら俺は帰れるだろうか。
幾つまで数えた頃だろうか、俺の後ろから微かな物音が聞こえる。どうやら足音のようだが、俺は数えるのをやめない。
こんな時間にこんなところにやってくる酔狂な人間は、俺以外にいるはずがないからだ。
思わぬ幻聴のせいで数がわからなくなったので、とりあえず七十くらいから再開することにする。
だんだん足音が大きくなっているのはやはり気のせいなのだろうか。その歩幅は広く、成人男性のように思える。
だけどほら、もう足跡は止んだ。
しんと静まり返ったグラウンドで俺は百まで数え終わる。そしてもう逃げられなくなっておもむろに目を開ける。
眩しい光が目の中に流れ込んできた。
「……ただいま」
夕日をバックに、金髪の男が屈託なく笑っている。
俺は立ち竦んでいる。
お前なんでいるんだよとか、いくらなんでも成長しすぎだろうとか、言いたいことはたくさんあるのに、
どれもこの場にはふさわしくない気がして俺は口をつぐんでいる。
戸惑う俺に、あいつの手がまっすぐに差し出される。恐る恐る掴むと力強く握り返された。
俺は泣く。
嗚咽を噛み殺す。
失ったと思っていた大切なものが今日帰ってきたので、俺はまるで少年のように泣いてしまったのだった。