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うたた寝

最悪だ、と田中は唇だけをその発音どおりに動かし、なんとか声は出さずに押し留めた。
目の前にはソファで眠りこける男が一人。
女性的な顔立ちをしてはいたが、その人物が男であることは間違いなかった。
なにせ鈴木は田中の幼馴染だ。彼が田中と同じくXYの染色体を有することは、子どもの頃から知っている。
「おい」田中はうたた寝をする鈴木を小突いた。
田中の住むアパートを、夕食時を狙って鈴木が訪れることは少なくなかった。
今日も今日で、食べるものを食べたら後片付けもせずにこのとおりである。
メグミはこんな男のどこがいいのか、と田中は考えた。メグミとは田中の妹で、どういうわけか
このだらしがない男に思いを寄せている。なんでも鈴木には好きな奴がいるとかで、
彼女は可哀想なことに、もう二度も振られていた。
尤も、メグミのことをとやかく言えないのは田中も同じだ。
自分の感情を未だ理解できないが、田中もこのだらしがなく、ふてぶてしい幼馴染に惹かれていた。
よりによって、幼馴染で男。ついにトチ狂ったか、と思ったが、思いのほか冷静である自分がそこにいる。
だが、最悪であることには変わりない。
そこで無防備に転寝をするな。そう言いたい。
だが「何故?」と問われても、なんとも答えようがない。
「おい、ってば」田中は先ほどより強めに鈴木を小突き、ついでにその肩を揺すった。
身長差などほとんどない二人だから、肩幅も腕の太さもそう変わらない。
この男の何がいいのかわからないまま、鈴木は平静を装って鈴木が反応を示すまで、その腕やら肩やらを
揺さぶった。
鈴木はいかにも不愉快であると言うように、片目だけをちらりと開けて、そしてまた閉じた。

「おい、明日メグミが来るんだよ。だからここで寝るな。泊まらせないぞ」
泊まる? そんなの溜まったものではない。この男の図々しさは生半可ではなく、勝手に田中のベッドの
半分を占領した挙句に「お構いなく」とわけのわからぬ言葉を添えて、
あと数センチで体が密着するという距離で寝息を立てるのだ。
(泊まられてたまるか……!)
「メグ、来るの?」鈴木がようやくまともな反応を示した。
この男は、美味いものを食べた時と、自分に降りかかるかもしれない災厄にしか反応を示さない。
それ以外はオールスルー。どうにでもなればいいよ、という考えなのだ。
「来るよ。遊びに来るんだよ。お前の顔を見せたくない。あいつはずっとお前が好きなんだ」
メグミが遊びに来るというのは無論、嘘である。だが鈴木が自発的にこの部屋から出て行かせるには
彼女の名前を出すのが一番有効的なのだ。振った相手と顔を合わせるのは、些か気まずいはずである。
「俺は別に構わないよ?」
「お前がよくてもメグミが可哀想だろうが! 馬鹿かお前は! さっさと帰れ!」
頭を小突くと「いた」と言った鈴木は漸くのそのそと起き上がった。
「田中は俺に帰ってもらいたい?」
「な、なに? 当たり前だろ! メグミが可哀想だ!」
「ふぅん。わかった。帰る。メグが可哀想だから、帰る」
鈴木は緩慢な動きでまずはその目やにのついた顔を拭うと、近くに放置されていた田中のダウンジャケットを着込み、
着終わったあとに「じゃ、帰る」と言い残し玄関へと向かった。
「返せよ、それ」
「え?どれ」
「お前が今来ているダウンだ。高かった」
「――ああ、これお前のか。悪い、気づかなかった」
「そんなわけあるか! もういい、さっさと帰れよ」
「うん、帰る。お邪魔様ご馳走様お休みなさい」
「はいはい」

鈴木は追い出された部屋の、少し錆びた扉を眺めていた。
「今日も駄目か」今日こそはキスもひとつくらいはされると思ったのだが、と独りごちる。
大学一年にもなって、幼馴染は奥手で仕方ない。いや、硬派と言うべきか。
「隙を見せているんだからチューくらいすればいいのに」
鈴木はチッとその顔に似合わぬ舌打ちをひとつすると、ケータイを取り出しメールを打った。
「うたた寝作戦は失敗、と。あとライバル作戦も駄目でした、と」
送信相手はメグミである。メグミには彼氏がいる。鈴木のことなど、ただの幼馴染くらいにしか思っていない。
身近にライバルがいれば闘争心に火がつくとメグミは言ったが、どうやら田中に限ってはそうではないらしい。
『その顔よその顔! せっかく人並み以上に生まれてきたんだから、うたた寝でもして隙をみせれば兄貴も
うっかりチューくらいするわ!』
そう電話越しに捲くし立てたのはメグミだった。
「はぁ。今日はちゃんと顔も洗って歯も磨いてきたんだけどなぁ」
鈴木は街灯のした、トボトボと歩きながら自宅を目指した。
「歯、イチゴ味の歯磨き粉で磨いたんだけどなぁ……」
鈴木はもう一度、呟いた。