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俺は忘れた、だからお前も忘れろ

一度唇を重ねたら止まらなくなった。乱暴にベッドの上に押し倒しても、竹下は拒絶をしなかった。
ただ蒼白な顔をして俺を見つめ、やがて観念したように固く目を瞑った。
乱されたシャツの下の身体は火がついたように熱く蕩けたけれど、その腕が俺をかき抱くことは最後までなかった。

翌朝、俺たちは何食わぬ顔で同じオフィスに出社し、すぐにいつも通りの日常に埋没した。
ちらりと観察すると、竹下は相変わらず凄まじいスピードで業務をこなしているようだった。
きれいな横顔からは何も読み取ることができなかった。
俺には、なぜ竹下が俺の行為に答えてくれたのかがわからなかった。
竹下には、己を失うということがない。人当たりは総じてよく、有能で同僚からの信頼も厚いがそのくせ誰からの距離も遠い。
近寄ると逃げていくこの男の心を知りたいと思ったのはいつからのことだろうか。
仕事の合間にくだらない用事で絡み、時間が空けば飲みに誘い、強引に家へ招いた。
竹下は子どものように自分を振り回す俺に半ば呆れていたようだったが、だんだんと本心を覗かせるようになった。
……それだけで、満足しておけばよかった。
俺はもう、竹下の身体がどんなときに反応するのかどんなふうにその声をあげるのかを知っていた。
けれどそのせいで、今は竹下から遠ざかった。
雑談を振ろうとする喉に舌は張り付き、デスクに向かおうとする足は竦んだ。竹下もまた、俺に近づこうとはしなかった。
仕事の繁忙期も重なって、業務以外の言葉を交わさない日が続いた。忙しさはむしろ、心地よかった。
こうして、衝動的に始まった一夜は二人の関係を振り出しに戻してしまった。

だから、その日仕事帰りにバーの黒塗りの扉を開けたとき、竹下の姿がそこにあったのはまったくの偶然だった。
大口の取引が無事終了しようやく人心地ついた職場の面々は挨拶もそこそこに散って行ったのだが、俺は帰宅する気分にならなかった。
ひとりで家にいれば、また愚にもつかないことを考え始めることは明白だった。
俺は特に必要もない残業で時間を潰し、それでもやることがなくなって会社近くのバーに足を運んだ。竹下がいるのは想定外のことだった。

俺は一瞬の躊躇いの末、意を決してカウンターに座る竹下の隣に腰を下ろした。
気が付いてほんの少しだけ眉を動かした竹下に俺はできるだけ平静な振りをして、“よう”と声をかけた。
竹下も“よう”と返し、何事もなかったように“いつものでいいか”と尋ねてきた。
それから俺たちは、職場の誰と誰がどうとか以前見た映画がどうとか、たわいない話題をどちらからともなくぽつぽつと話した。
一度話してしまえば、感じていたぎこちなさは氷解していくようだった。
「なあ、この間のことだけど――」
気が付くと声が出ていた。しまったと思ったが、口にした言葉は呑み込めない。俺はやけになって竹下の返事を待った。
竹下はカウンターに肘をついて物憂げに視線をよこした。彼らしからぬ仕草だった。
このときになって初めて、竹下がYシャツの第一ボタンを開けていることに気が付いた。この男は通常、帰宅するまではネクタイを緩めない。
「何の話だ」
「とぼけんなよ」
何かがおかしい。違和感に眉をひそめる俺に、竹下はあっさりと言葉を続けた。
「忘れた」
「は、」
「俺は忘れた、だからお前も忘れろ」
「なんだよ、それ」
腹が立って竹下の腕を掴むと、案外やすやすとその身体が引き寄せられる。
「……お前、もしかして酔ってんの?」
強引に顔を覗き込むと、嫌そうに背けられる。よく見ると目の端がわずかに赤い。
それなりに飲んでも顔色の変わらない男だったはずだが、いったいどの程度飲んだのだろう。
そしてこの理性的な男が酒に酔いたくなる事情とはどれほどのものか。
「腕を放してくれ。痛い」
懇願する竹下の瞳が動揺に揺れているのを、俺はただ信じられない気持ちで見つめていた。