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枕返し

ドン、と決して軽くはない力が身体にぶつかる衝撃で目が覚めた。その次の瞬間にはベシャリ、と全身を強打していた。
鈍い痛みのおかげで寝ぼけていた頭が覚醒した今、はっきりと状況が理解できる。
有り体に言えば、寝ているところをベッドから落ちた。いや、落とされた、と言うのが正しい。
布団から放り出された身体は冬の余韻を大いに残す夜の寒さにぶるりと大きく震えた。
露出した肌と触れ合う、冷えきったフローリングの床は、容赦なく指先から爪先から体温を奪っていく。
冷たい床と頬を寄せ合いながら、どうしようもないほどの悲しい気持ちに苛まれた。次いで、どうしようもないほどの苛立ちが腹の底からこみ上げてくる。
この間、僅か数秒のこと。
苛立ちに突き動かされるまま、すくっと立ち上がると、枕に足を乗せて腑抜けた寝顔を晒す男を見下ろした。
もう何度目だろうか。そう、この男にベッドから蹴落とされるのは。
半開きの口の端に、微かに涎の痕をつけているこの男は壊滅的なほどに寝相が悪い。
こいつのせいで夜中に無機質な床へと放り出される度、ベッドを新調してはサイズアップを計り、ついにはクイーンサイズに到達したというのにこの有様。
スヤスヤと穏やかな寝息を立てて眠る姿を見ていると、腹立たしさはいよいよピークに達し、阿呆面で眠りこける男の頭を思い切り叩いた。

「幸せそうに寝てんじゃねェーッ!」
「ッ!!ッテェ!!」

渾身の平手に勢いよく飛び起きた男はそのまま頭を抱え、身体を折るようにしてベッドの中腹へと沈み込む。

「おい」

怒気を孕んだ声で呼び掛ければ、涙を薄らと浮かべた顔がこちらを向いた。
目が合った瞬間、男は「あ」とでも言うように、痛みに眉を顰めていたのを、イタズラが親に見つかった子供みたいな表情に変えた。男も状況を理解したらしい。
来るべく謝罪の言葉を待ち構えた。
この男に謝られるのに弱い。怒りは最高点に達してはいるものの、「ごめん」と一言言われるだけで、容易にこの怒りが収束するのも毎度のこと。
とんでもなく甘いとわかってはいるが、好きな人に甘いというのが男の性だ。それがたとえ寝ている人間をベッドから蹴落とすような野郎であったとしても許してしまう。
しかしながら、いくら待っていても今日は一向に男の口から「ごめん」が出てこない。
ようやく口を開いたかと思えば、神妙な顔つきで「出た」と突然わけのわからないことを口走った。

「出たんだよ、枕返しが」
「ハァ?」
「寝てる人間の頭と足を入れ替える妖怪。そいつのせいだ」

こ、い、つ、は。
謝るどころか、大真面目な顔してふざけたことを抜かすこの男をどうしてやろうかと、膨れ上がる苛立たしさを持て余す。

「テメェの寝相の悪さをわけわかんねェもんのせいにしてんじゃねェッ」
「なッ!これは至って真面目な話なんだぞッ!?枕返しは人の命を奪うこともあんだかんな!」
「あー!もうわかった!枕返しだか布団返しだか知らねェが好きにしろ!俺はひとりでソファで寝る」
「ままままま待てッ!!」

夜中にこれ以上不毛な言い争いをするくらいなら、多少は寝心地が悪い場所であろうとも我慢してさっさと寝てしまいたくて、毛布をかっさらって部屋を出ていこうとした。
そんな俺の服の裾を強く握り締めて、男は上擦った声まで上げて引き留める。

「枕返しが出るかもしれないのに、俺一人とか怖いだろォが」

「……こいつはまだ言うか!」と思いはしたのだが、半泣きになりながら見上げてくる様が余りにかわいくて、さっきまでの怒りはどこへやら、「……寝るか」とだけ小さく呟いた。
我ながらなんて愚かなんだと思わずには居られないが、何度も言うよう男の性だ。仕方ない。
寝相でも枕返でも何でもつきあってやるよと、乱れた布団を直して、向かい合って眠った。