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記憶喪失な攻め

「さて、良く聞いて」
目の前の白衣を着た男が優しげに微笑んだ。
「まず僕の家族構成。両親に兄が一人、姉が一人。ゴールデンレトリバーが一匹、オス。
 実家は出て一人暮らしをしている。趣味は読書、というより活字中毒。なんでも読むよ。
 本の読みすぎで、このとおり学生の頃から眼鏡を愛用している。コンタクトはどうも苦手でね」
そう言う男の顔には黒縁の眼鏡がかかっている。
俺がそれをじっと見つめると、男は少し眉尻を下げてこちらに笑いかけた。
「やっぱりおかしい?」
「いや。似合っていると思う」
感じたままを伝えると、彼は二、三度まばたきをしてから、嬉しそうな表情になった。
その表情のまま、彼は訥々と語る。
「僕は夜型なんだ。寝る前に本を読み始めると止まらなくてついつい、ね。だから朝は苦手で。
 よく遅刻しそうになって飛び起きてバタバタして、寝癖をつけたままここにやってきてしまう」
彼の髪は猫っ毛のようで、今も少し妙な癖がついていた。
自分の髪質はどんなだったか。ふとそう思って、俺は自分の髪を触った。
すると男も腕を伸ばしてきて俺の髪を一緒に撫でようとする。
反射的に身を引いた。背中が椅子の背もたれにぶつかる。
「嫌?ごめんね」
苦笑して、彼は俺の髪に触れないまま手を引っ込めた。笑っているが悲しそうにも見える。
「……すまない」
詫びたが、男は気にしないでと首を振った。
「いいんだよ。こんな風に、僕は行動に前触れが無いとよく言われるんだ。それでよく失敗する。
 それで、ええと……そう、朝が苦手だってところまで話したね。他に苦手なものはアルコールかな。
 ビール一杯で真っ赤になってふらふら。だから酒の席は極力避けてる。けどこう見えて料理は得意でさ。
 だから呑みに出かけるよりも家で料理を振舞ったりする方が好きだな。君も美味しいと褒めてくれた」
それがとても誇らしいことのように、彼は胸を張る。
「俺が、褒めた」
「そう。君は僕の恋人で、付き合いだしてもうすぐ二ヶ月になるからね」
俺は一度目を閉じて、今まで受けた説明を頭の中で繰り返す。
説明を統合して人物像をまとめあげてからまた目を開ける。白衣の男は変わらずそこに居る。
俺は左後頭部がざわつくのを無視して、彼に問う。
「俺は誰だ」
「君は僕の恋人だ」
淀みなくはっきりと、男はそう言った。
意識して呼吸を整えて、再度男の口にした言葉を反芻する。
「付き合いだして、二ヶ月」
「そう。二ヶ月だ。いわゆる蜜月ってやつ……なーんてね」
自分で言った言葉に照れたように頭をかいてから、彼は俺の目を覗き込む。
覗き込んで、ひどく魅力的に微笑む。
「どうかな?」
「……なにが」
「今度の設定、嫌じゃない?」
その問いに無言で首を振ると、男はホッとしたように胸に手を当てああよかった、と呟いた。
それを見ながら、俺は思ったことを正直に伝えてみる。
「毎回コロコロ変わるのに、俺が恋人ってところだけは変わらないんだな」
すると男はわざとらしく眉を寄せて、重々しく身を乗り出してきた。
「微妙に違うんだけどな。前回は、お互い片思い期間が凄く長かった。正式に恋人だったのは実質一週間だ」
「そうだったか」
「そうだよ。いやだな、もう忘れちゃった?」
俺はもう一度目を閉じる。しかし、何も浮かんでこない。
頭の中にはもう白衣の男しか居なかった。閉ざした視界の中で男の声だけが響く。
「ずっと葛藤して一度は諦めて、でも諦められなくて、迷って揺れて苦しくて。でもやっぱり好きでさ」
「……前回のお前はどんなだったっけ?」
「会社員だよ。スーツ着て、口調はもっと堅い感じだったよ。一人称は『俺』。
 君の事は『アンタ』なんて、ぞんざいな呼び方してたけど。ああ、そっちの方が好み?変える?」
「いや。……で、それが最後には恋人関係になったのか」
「そうだよ。本当に覚えてないかな?君、あのときネクタイを解くの上手かったよ」
うっとりするような声が、頭の片隅を引っ掻いて、俺ははっとして顔をあげる。
だが、そこには白衣で寝癖をつけた眼鏡の男が変わらず座っているだけ。
「覚えてない?君が僕をどんな風に扱ったのか」
お人好しそうな容貌の男が、気遣わしげに俺を見つめているだけだ。
他には誰も存在しない。
「記憶が定かじゃない。覚えていない。すまない」
感情の篭もらない声が、喉の奥から吐き出された。まるで予め用意されたセリフのように。
「あ、いいんだよ。ごめん、仕方ないよね。ずっと続けているんだもんね。そんな顔しないで。
 前回のことをあまり持ち出すべきじゃなかった。僕は君さえいればいいのに。ごめん」
自分は今どんな表情をしているのか。確かめたかったが、この部屋に鏡は存在しない。
俺の姿が映るものは、彼の瞳だけだ。だからこの男を見つめるしかない。
「……なあ、俺の設定も変えてくれ。あまりにも俺が俺でありすぎて、気が遠くなる」
「それは駄目。僕が愛しているのは君だけだから。君はずっと君でいて」

息を吐いた。
果たして俺は落胆したのか安堵したのか。
俺は三度、目を閉じる。

「さあ。それじゃあ、始めようか」