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妻子持ち×変態

散る火花、電動ドリルの回転音、荷を積載して行き交うトラックの軋み、砂埃、
天を突く事を恐れず真っ直ぐ伸びていくクレーン車の腕が、白日の空には余りに
不調和に過ぎる黒い鉄骨を高々と吊り下げる下で、労働者達の怒号が交差する。
決して気短な人間ばかりではないのだが、種々の工程に付随した騒音が
鼓膜を刺激しない建設現場など未だ有り得ず、スピード、効率を高めることに腐心する
人々は拡声器を握り締め、腹の底から大いに声を張り上げる一方で、かつ瓢箪型を
した小さな耳栓に世話になりもした。
作業音に限らず、どんな職場にも耳を塞いでしまいたくなるような害音は存在
するもので、特にそれが人の喉から発された聞くにも耐えない言葉であり、己が身を
おびやかす予感すら匂わせていた場合、鉄拳の一つも見舞いたくなるのが
人情というものだ。決して、自分は気短な性質ではなかったはずなのだが。
「愛しています」。
そう口にして縋りつこうとしてきた若者の頬を一発、殴り飛ばした瞬間にこそしまった、
と思ったが、未舗装の赤土の上に上等のスーツで尻餅をつき、脚を広げて
ポカンとした顔がやがて我を取り戻し、敢然と同じ愚言を繰り返そうとするので、
二発目は全く遠慮無しに腹に打ちこんだ。
「この、ド変態が!」
男の多い職場である。世に同性愛を嗜好する者があることも分かっている。
しかし自分がその対象にされるとなるとただ黙っているわけにはいかない。
長く現場第一線に立ち続ける中、まさかこの身が他人に向けてそういった種類の
罵倒を吐こうとは思いもしなかった。
大手建設会社から工事管理、現場にて細かな調整に当たるために派遣されてきた
建築士であるというこの男も、初見ではまともに映ったのだ。育ちのよさそうな顔立ち
に堅実な仕事、現場監督としてのこちらの立場を軽んじることもない、非常な好青年
ぶりを発揮していたはずが、
「調子に乗るなよ、若造が」
「むしろあなたが僕に乗るべきだ!」
今では二者の間には静電気のようにピリリとした緊張が流れ、四六時中
獣のように気を張っていなくてはならなくなってしまった。
どうしてこんなことになったのか。俺が一体何をした。
隙を見せないよう、化粧前で剥き出しの鉄筋の壁で尻を隠しながら横伝いにじりじりと
歩く。若者の頬には痣が増えた。血を吐いて鳴くホトトギスのように鋭く、愛して
いますと迫るたびに一撃、また一撃を加えたためだ。言葉の激しさに応えたわけでは
なかったが、一切の手加減をしなかった。
目障りな変態相手に情けは無用と感じたからだ。
ボクサーのように痣を誇りこそしなかったが、若者はそれを隠そうともしない。こちらの
拳の痛みなどお構い無しに日々青に黄色に、斑に広がっていく模様に声をかける者
もいたが、明確な返答をした事はなく、目元に満足そうな笑みを刻むのみだった。
ホモでマゾか。救いようがない。
アブラゼミの声を聞きながら、「夏場のヘルメットは頭がサウナですねえ」
などと気負いのない会話をしていた頃がひどく懐かしかった。
たまらず、泣きを入れた。自分は妻子ある身だから、これ以上付き纏うのはやめてくれ
と拝み倒したのだ。彼は不意を突かれたようにきょとんとしていた。
どうやらこちらが既婚であることを知らなかったらしい。
申し訳ない事をしたと、頭を下げる様は潔かった。
「僕は我侭を言って、現実を受け入れたくなかっただけなのかもしれない。
あなたはちゃんと、最初から答えをくれていたのにね」
そう言って、若者は頬を押さえた。
こちらについての十分な知識もなく、そんな余裕もなく、ひたすら心の滾るままに
彼は突っ走っていたのだろうか。だからといってあのしつこい猛勢に得心が行くわけ
ではなかったが。自分はかつて妻に限らず、これほどまでの情熱でもって誰かに
接したことがあっただろうか。
あなたを好きでしたと、振り切るように彼は最後に告白し、およそ一月後、我々の
手掛けた建物は無事竣工式を迎えた。
式典から帰宅して玄関で黒光りする靴を脱ぐ間もなく、小学生になる娘が駆け寄ってきた。
「お帰りなさい、お父さん!」
見上げてくる、澄みきった黒い二つの輝きにふと何かを思い出しかけた。そう言えば
こんな目をしていた、ひどく一途な目をして追いかけてきていたんだと、彼の熱を
今更のように胸をよぎらせ、両手を差し出して、ゆっくりと娘を抱え上げた。