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あやかし×平安貴族

雨が降り始めた。最初は小粒の雨だれだったが段々と雨脚が強まっていく。
勝利に沸き立っていた周りの人々は、その興奮に文字通り水をかけられたのか、
足早に山道を引き返していく。

しかし、彼――私の仕える主人だけは、その場に佇んだまま動こうとしなかった。
右手に剣を携えたまま、雨に打たれている。

私は主人の元に走ろうとして、一瞬だけ躊躇した。
彼の足元に転がるそれが、また起き上がり牙を剥くのではと思ったのだ。
しかし、すぐにその考えを打ち消して傍に駆け寄る。
「中将様、お怪我は」
訊くと、彼は足元から目を離さず、ただ「ない」と短く言った。
その視線につられるように、私も足元を見る。

それは、漆黒の毛並みを持つ獣だった。今は骸となって地に横たわっている。
大きな体躯をしたそれは山狗に似ていたが、本来は何という獣なのか私には分からない。

宮中に災いをもたらす妖の者だという話だった。
元は獣であっても気の遠くなるような月日を生き長らえるうちに、知恵をつけ
恐ろしい力を振るい、妖の術を使い、ときには人に化けることもあるという。

仕留めたのは、彼だった。

「あまり雨に濡れると御身体に障ります」
それでも彼は、骸から目を離そうとしない。
「…それは、もう事切れておりましょう。心配なさらずとも」
「なぜ此処で待っていた」
「……は?」
「逃げろと、言ったのに」
見れば、彼の剣を握るその手が微かに震えている。
「攫わないどころか逃げもしないとは、お前は本当に…」

意味が分からず、どう返事をしたものかと逡巡していると
彼は顔を上げ不意に「戻る」と言った。
そのまま、私の返事も待たずに歩いていく。私も慌てて後を追う。

「中将様が仕留められたとお聞きになれば、主上は一段とお喜びになるでしょうね」
主人を和ませようとして出た言葉だったが、彼は何も答えなかった。
硬い表情のまま、後ろを振り返ることもなく、足早に歩いていく。

この三日後に、彼が自らの身を湖に投げ出すとは、このときの私には知る由もなかった。