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会社で年越し・上司と部下

 そろそろ、疲労がピークだ。キーボードを叩く手を止め、片瀬はいい加減休ませろと疲れを訴える目元を押さえた。
 大きく溜息を、一つ。そこから前方へと腕を伸ばし、伸びをする。途端、椅子がぎしりと悲鳴を上げた。人気のない室内にやけに大きく響き、片瀬は僅かに身を竦めた。普段は人がひしめくはずの場所に、一人きりという孤独感がそうさせるのか。暖房が効いているはずなのに、やけに薄ら寒い。
「あー、……疲れたっつーか、眠いっつーか、……早く帰りてェ……」
 思わず、情けない声が出る。流石に部下の前では零せないが、今は一人きりだ。多少の愚痴も許されるだろう。
 まったく何が悲しくて、この年末に居残って残業しなければならないのか。
 納期が近いのは分かっている。思ったように進行しなかったのも、事実だ。そして、独身である身で、上司。残業に問題のない身であることも、十分理解しているつもりではあるのだが。
 もうすぐ年が変わる時間に、一人で残業というのも、なかなか厳しい。
 さて、と気合いを入れ直して再びディスプレイに向き直る。どうにか、終わりそうな目処がついたから部下を帰したのだし、ここでいつまでもへこたれている訳にもいかない。
 不意に、近付いてくる足音が耳に届き、片瀬は緩く首を傾げた。自分の所の人間は、皆帰した筈だ。どこか、別の部署の人間が残っていたのだろうか。
 もう年も変わろうとしているのに物好きな。そう思いかけて、思わず口元に苦笑が浮かぶ。
 それは自分もか、と苦笑を深めた時、近付く足音が止まり、部屋の扉が開く。
「お疲れ様でーすっ。年越し蕎麦の出前に来ましたァ、……なぁんて言ってみたりして」
 底抜けに明るい声が響く。いつも通りの満面の笑顔で、コンビニ袋を嬉しそうに掲げる男の姿に、思わず力が抜ける。深く背もたれにもたれかかると、ぎしりとまた椅子が大きな悲鳴を上げた。
「さー、ほらほら、のびちゃいますよー。さっさと食いましょ。ね、ね?」
 先程帰したはずの部下、中村はにこにこと満面の笑みで、相変わらずのテンションだ。彼の持つ袋からは、生麺タイプの掛け蕎麦が二つ、既にお湯が注がれた状態で出てきて、ますます片瀬は力が抜けた。
 早く早くとせかす中村に、片瀬は大きく溜息を吐くと、勧められるままに蕎麦の器を取った。冷えた指先に、じわりと温く熱が伝わってくる。
 はい、と中村が割り箸を差し出してくる。素直にそれを受け取りながら、蓋を取った。ふわりと香る出汁の香りに、腹が減っていた事を思い出す。そういえば、前回の食事はずいぶんと前だったような。ゼリー食だったか、固形栄養食だったか。
 ぼんやりと、前の食事を思い返しつつ、蕎麦を啜る。……暖かい。
 なんだかんだで力の抜ける部下の中村だが、見ている所はしっかり見ているというか。ちゃんとした食事を取っていない所も見られていた、というか。こういう気遣いをしてくる辺りは、捨てたものではないと改めて思う。
 ふと、にこにことやけに嬉しそうに自分を見つめてくる中村の視線に気付き、片瀬は眉根を寄せた。
「……なんだよ」
「あー、いや、……うん」
 あんまり見つめられると落ち着かない。気になって問いかければ、やけに中村の歯切れが悪い。
 睨んで先を促せば、ぼそぼそと呟くように白状した。
「や、ほら、片瀬さん、美味いモン食ってる時、黙り込む癖があるから、美味かったのかなーって。や、それがなんか無性に嬉しかったっていうか、可愛かったっていうか」
 白状された言葉に、思わず片瀬は噎せた。
 そこまで観察されていたのか、とか、三十路手前の男に何言ってんだ、とか。色々問いつめたい事はあれど、噎せて噎せて言葉にならない。
 慌てて背を擦ってくれる中村の手を、恨めしく思いながらも、どうにか呼吸を立て直す。
「……バカ言ってないで、とっとと食え。んで、さっさと家に帰れ」
「えー。あともうちょっとなんでしょ?なら、二人でやって、ちゃっちゃっと終わらせちゃって、二人で帰りましょうよ」
 ねえ、と脳天気に笑う中村に、目眩がする。
「一人で帰る部屋は寒いんですよ、智之さん」
「……まだ仕事中だ」
 ぴしゃりとはねのけるように片瀬は返すが、耳が熱いのを自覚している。不意の名前呼びに、こんなにも動揺させられて、悔しいやら、恥ずかしいやら。きっと、頬も赤くなっているのだろうとは思うが、それを認めるのもどこか悔しい。
「一緒に帰りましょうね」
 先程の言葉に、改めて念を押すように中村は繰り返してくる。こうなってくると、ちゃんと答えるまで中村は粘るのだ。諦めたように片瀬は大きく息を吐き出した。
「……ああ」
「へへー」
 まるで子供のように素直に感情を表に出して、満面の笑みを浮かべる中村に、片瀬はどうしても勝てないのだ。
「あー、でも、これだけ頑張ってるんですから、明日は予定通り休みですよね?」
「……あァ、まあ、そうだろうな。……つーか、もう、今日、になるけど」
「あ、ホントだ」
 パソコンのディスプレイの時計が、0時を示す。ニューイヤーを祝う花火の音が、どこか遠くで響いた。
「あけまして、おめでとうございます。今年も、どうぞ宜しくお願いします」
「……宜しく」
 満面の笑顔で言う中村に、片瀬は妙な照れくささを覚えつつ、ぼそりと返して視線を逸らせた。
「……蕎麦、とっとと食って、仕事片付けて帰るぞ」
「はいッ。あ、片瀬さん、明日お休みなら、初詣してから帰りましょうよ。俺、どーしてもしたいお願い事があるんですよねー」
「初詣?」
 不意の言葉に、片瀬は眉根を寄せて首を傾げる。
 ええ、と力一杯中村は頷きを返して、ぐっと拳を握りしめる。
「今年も、来年も、そのまた来年も、そのずーっと先も。片瀬さんと、一緒にいられますように、って。こう見えても、俺すっげェ不安なんですよー?片瀬さん狙ってる女、多いんですから」
「……バカか」
思わず、呆れた溜息が出た。
「願い事は人に話すと、効果なくなるんだぞ」
 片瀬の言葉に、衝撃を受けた中村の表情が、へにゃりと泣きそうなものに変わる。その、あまりにも情けない表情に、思わず妙な仏心が沸いてきてしまう。片手を伸ばして、くしゃりと中村の髪を撫でた。
「それに、そんな心配なんか、すんな。……大丈夫だから」
「智之さぁんッ」
「だぁっ!そば!そば、こぼれるっての!」
 犬だったなら、きっと尻尾が振りちぎれているだろう。そんな勢いで、飛びついてきそうな中村を制しつつ、片瀬は残った蕎麦を片付けてしまおうと口元に器を運んだ。
 先程までの情けなさは、どこへやら。喜色満面で、中村も再び蕎麦に箸をつけている。
 翻弄されているのは自分ばかりかと、仄かに浮かんだ感情は悔しさだろうか。器から口を離し、ちらりと中村を見やる。
「初詣より、早く俺は家に帰りてぇんだけど」
 片瀬の言葉に、何でですかぁ、と口をとがらせる中村を見、わざとらしく視線を外す。ちらりと、再度照れくさそうに中村を見やり、
「……バカ、たまには、俺だって誘いたい気分になるんだよ」
 意趣返しのつもりで返した科白の効果は、いかほどか。程なくして意味を理解した中村が、真っ赤になって噎せ返るのと、してやったりとばかりに片瀬が会心の笑みを浮かべるのは、ほとんど同時だったという。