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お題

「あたしにはフローラがいるから構わないわ、なんて強がってたけど、
嘘よ。フローラは可愛いけど、身につけて楽しむための道具じゃ
ないもの」
大きな図体をしながら鼻を鳴らして甘えている犬の頭を、玄武岩の
ような指が優しく撫でている。得意技はリンゴジュースであるという
その指の持ち主が、実際はひどく穏やかな人物であることを知る
者は少ない。寂しくもあるが、それは同時に、深く内面を知るのは
俺だけだというプライドを大いにくすぐりもしていた。
「ほんとは羨ましかったわ、トナカイの毛皮のブーツ。あの子、わざ
わざお店に履いてきて見せびらかすんですもの。皆、羨望の眼差し
で眺めてた。その前に着てきたミンクのコートも、ビーバーの帽子も、
タヌキのしっぽの筆も、とっても素敵だった。あれがあたしの物だった
らって考えただけで動悸が収まらなくなって、ぼうっとしちゃうほど」
澄んだ湖底のような瞳の奥で、ジュンは同じカフェで働いている同僚
の事へと思いを馳せているようだった。若く、細身で派手さを武器に
した同僚に、言葉にはしないが複雑な思いを抱えているのは手に
取るように分かる。「ねえ、あたしでいいの」「うん?」
俺の体に寄り添う。人っ子一人いない山中であるとはいえ、こんな
風に二人で野外で密着するのは、本当に珍しい。
「あたしを選んでいいの?」「もちろん」「あの子じゃなくて?」
「世界中の誰よりも、君がいい」
「あたしが不細工で、珍しいからでしょう」
「俺は、レア物が好きだから。君ほどの類い稀なる宝玉のような
心の持ち主は、他にいない」
嬉しい、とジュンは割れ鐘のようなどら声を震わせて、少女のように
頬を染めた。
「ごめん。俺に金があったら、君に惨めな思いはさせないのに」
「ううん、あたしが悪いの、愚痴っちゃって。そうね、あの子にはパト
ロンしかいないけど、あたしには恋人がいるもの」
俺はジュンを抱きしめた。開業したての貧乏な探偵が、情報収集に
入った店が偶々ニューハーフカフェで、目立たず大人しいが、眉根も
凛々しい筋骨隆々である給仕と恋に落ちてしまったなどと、一体誰が
想像するだろう。源氏名である「ジュン」は、俺の名前の一部と同じ
だ。自力で運命の相手を手繰り寄せたようで、それが誇らしかった。
風向きが変わった。焚き火の炎が上げる煙がゆっくりとこちらに
向かってたなびき、傍らでまどろんでいたフローラが耳を動かし、
起き上がる。来たのね、とジュンは低く唸り、藪の向こうの闇へと
視線を投げた。一瞬にして殺気を纏った恋人の様子に、俺は戦慄
した。山に入った当初の目的を思い出したのだ。これは、
ただのデートではなかった。
「ここで待っててね、すぐ帰ってくるから」
「ちょ、ちょっと待て。まさか、本気だったのか」
地元では、既に今年に入って六人もの狩猟者に重傷が負わせられて
いる。もはや止める者は誰もいなくなった暴れ熊に、人々は畏怖の念
すら込めて「顎の王(あぎとのお)」の異名を冠した。
あたし、毛皮が欲しかったのよねとのジュンの言葉が蘇る。
「人間を恐れないのは、狂っているからだ。恐怖の支配から抜け出
した獣こそ、あたしの敵にふさわしい」
千年の巌が動くように、ジュンは立ち上がった。喉口から肩にかけて、
覇気が陽炎のように揺らめいている。
「待てってば、君は、猟銃すら持ってこなかっただろう!」
ミチッ。
叫んだ俺の耳に、不可解な音が届いた。間髪置かず、ジュンのジャ
ケットの両袖が弾け飛ぶ。引き裂かれた布を桜吹雪のように漂わせ、
丸太のごとく膨らんだ両腕を剥き出しにして、ジュンは親指を立てる
と、にっこりと白い歯を見せて笑い、唖然とする俺に背を向け、藪の
中へと姿を消した。忠実なフローラが素早く後に続いた。
その後のことは、特に記憶を掘り起こさずとも、地元の新聞が詳細に
伝えている。躍る見出しには、「暴れ熊退治される」。そして「新生・
顎の王!飲食店勤めの好青年、熊をくびり殺す」。一面を飾った写真
には新たな名を戴き、熊を緋色のマントのように羽織って威風堂々と、
照れくさげに微笑むジュンの姿があった。