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相貌失認症

 グリーンとブルーの絵の具を半々に溶かして、ガラス玉の中に閉じ込めたような二つの虹彩。
 瞼を動かしてぱちぱちと瞬きする度に、透明度の高い、南国の海を思わせるそれが窓から差す太陽の光を受けて綺麗に輝く。

「これが、俺の目」

 促されるまま、ブラウンの睫毛を人差し指で撫でると彼は猫のように瞳を細め、瞼に皺を作った。
 くすぐったいと言わんばかりに、ふにゃふにゃと溶ける可愛い眼差しを見つめているとなんだか胸が落ち着かない。
 あたたかくて、見ているこちらがくすぐったくなるような、この気持ちはなんだろう。

「んじゃ、次。これが唇、な。ちゃんと覚えて」

 飽きもせず、下瞼の縁に生える睫毛を撫でていたら少し強引に手首を掴まれて口元へ導かれた。
 指先に当たった柔らかくてあたたかい感触に、やましい事なんて何も無いのに思わず口ごもってしまう。
 キスなら何度もした。下唇の裏に舌を滑り込ませると、彼が切なく息を乱すことだって知っている。

「や、らかい…」
「……うん」

 分かっているのに堪らず呟くと、数秒遅れて相槌が返ってくる。
 への字に曲げられた唇の意味はやっぱり分からないけれど、普段はハキハキとした彼が
 どこかふてくされたように口の中だけで歯切れの悪い返事をする時は、ただ照れているだけなんだ。
 血色が良く、少し厚い唇を懲りもせずふにふにと揉んで遊んでいると、痺れを切らして彼の目つきが厳しくなった。

「バァッカ、いつまでそうやってんだよ。そうしたら、ホラ」

 お叱りと言葉と一緒に、彼が離れていく。
 ヒト一人分、たっぷり距離を取って目の前に立ったのは、やっぱり見知らぬ男だった。

「……あ、あ。やっぱダメだ。アダム、もっと近くに寄って」

 ブルーグリーンの瞳。赤い唇。スッと通った鼻梁。そのどれもがしっかり思い浮かべられるのに。
 何度もキスをして、指先で撫でて、パーツの輪郭を覚え込むほどに愛撫しても、俺は彼の“顔”を認識する事が出来ない。
 俺は怖くなって、慌てて彼を手招いた。

「……ッ、なんだよ、やっぱダメかよ。いい加減恋人の面くらい覚えろよな、お前」
「でもさ、ちゃんと声で分かるんだから大丈夫だって。それに、もしも耳が塞がってたってカラダに触れば一発」
「……うっわ、またそういうサムい事言う。嬉しくねーっつの」

 恨めしそうにごちる彼の声色には俺を責めるような色は含まれていない。ごめんと謝ると彼はひどく辛そうな声で怒るので、いつからか俺はジョークが上手くなった。
 口元をへらりと緩めた彼は、とても可愛い。
 なんだか気の抜けた犬みたいだなぁなんて、彼が聞いたら心外だと憤りそうな事を考えながら、手を引いて身を寄せると触れるだけのキスを送る。
 俺を受け入れる柔らかみは確かに彼のものなのに、どうして何度確かめても俺はこれが分からないんだろう。どうして俺は、彼の表情すら理解できないんだろう。

 口付けを交わしながら視線も絡めれば、目の前で優しく細められた瞳がキラキラと光るさまがよく分かる。俺が今まで見てきたどのブルーよりも澄んだ海の色。
 仮にいつか聴覚を失って、半身不随になってこの身体に触れることすらできなくなったとしても。きっと俺はこの色を覗き込むだけで、彼を認識する事が出来る。
 そんな薄暗い想像をして、少しだけ安心するんだ。

「アダム。俺さ、お前の目の色、綺麗ですごく好きだよ」

 キスのあと、囁いた言葉は彼を驚かせただろうか。
 目を見開いたあと、彼は不意に下を向いて視線を逸らしてしまった。小刻みに震える両肩に手を掛け、覗き込んだ顔はなんだかいつもと雰囲気が違う。
 くしゃりと歪んだ顔は、笑い声をあげる時や、ベッドの中で音を上げるまでいじめた時のそれとも似ているようで、俺は首を傾げる。

「……なに、笑ってる?そりゃ、俺ちょっとキザな事言ったけどさぁ…」
「……ほん、っとだよ。お前が変なこと言うからさ、笑い止まんね、ハハ…」

 笑いを堪えながら話すせいか、彼の声は震えていた。
 おかしいと声を出して笑う彼の瞳が、水を湛えたようにして普段よりも綺麗に輝く訳を、俺は知らない。