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甘えるのが苦手

ぱさり、と音がして、俺ははじめて本から目を離した。

それは、教授の顔の上に論文が落ちた音だった。
自分の膝に頭を預け、論文を読んでいたはずの教授は、今やすっかり沈黙していた。
無骨にまとめられた白い紙束の下で、くぐもるような寝息が聞こえる。
ただそこには、規則正しく上下するワイシャツの薄い胸があるだけだった。

「せんせい」

小さく呼んだが、返事はない。
否、返事をされたくない気持ちがどこかにあったから、小さな声で呼び掛けたのだった。

「……寝てる」

わざと口に出して、幸福感を噛み締めた。


「たまには、甘えさせてみないか」

教授にしては、突拍子もない提案だった。
しかしそれは彼なりの論理で「最も恥ずかしくない誘い方」を模索した結果だったのではないかと、今にして思う。

「いいですよ」

俺もまた深くは聞かず、読んでいた本を置いた。

「どうぞお好きに」

腕を広げると、教授は「いや……」と言葉を詰まらせた。

「受け入れてくれるのは嬉しいが、そう待ち構えられるとかえってやりづらい」
「はあ」

じゃあどうすれば、とは言わなかった。おそらく教授自身も、そう思っただろう。



「……やっぱり座っていてくれないか、本もそのままでいい」

少しの沈黙のあと、教授が切り出した。

「甘えないんですか」

答えはなかった。
なんだつまらない、と読書に戻ろうとすると、にわかに教授の体がこちらに傾いた。
「あ」と口にする間もなく、あぐらの腿に教授の頭が乗った。

「こうやって論文を読むのも、悪くないと思ってね」

妙に言い訳がましく、教授が言った。
かわいい人だなぁ、と思ったが勿論口には出さなかった。
ただ、照れを噛み殺すように強く寄った眉間の皺を、俺は愛おしく見つめた。
窓から差し込む日が、だいぶと赤みを増してきた。
教授は相変わらず、論文の下で眠りこけている。
教授の髪を手の甲で撫でながら、俺はしばし、彼を起こすべきか悩んだ。


教授は多忙だ。
多忙でなかったとしても、まず研究熱心だ。
目を覚ませば、きっと何かしらの理由を見つけて慌ただしくこの下宿を出て行ってしまうだろう。

そうまでして教授の心を惹き付ける「学問」という存在に、院生の身ながら少し妬ける。
教授の見えない寝顔に被さっているこの紙束だって、ここ数日でおそらく俺が注がれる以上の熱視線を受けている筈なのだ。

「……たまには」

そう思うと、ひとりでに言葉が漏れた。

「朝までいてくれたっていいのに」

決して口にしたことのない、子供じみたわがままだった。
教授の周りには優先しなければならないものが幾つもある。それは自分が一番よく分かっていることだ。
こんな甘えた願いを、教授を誰より応援する立場である自分が持っていていいはずがない。
……そう、思っていたけれど。


「いてやろうか」


不意に聞こえた声に慌てて論文をどけると、そこにはにやりと微笑む教授の姿があった。
にわかに顔のあたりに血が昇り、かっと発熱する。

「……趣味が悪いです、先生は」

優しく年をとった手が頬を撫でると、俺は観念したように目を瞑った。