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そっと手を繋いでみた

ノックと言うには強すぎる、ガンガンとドアを叩く音がする。慌てて立ちあがってドアを開けると、そこには寒そうに肩を竦ませてマフラーに口元を埋める彼が居た。
「どうしたの」
「分からないことがあったら聞きに来いって、センセー言っただろ」
そう言いながら見せてきたのは数学のテキストで、僕は戸惑いを隠さな表情で首を傾げる。
「そりゃあ言ったけど……数学のことは、数学の先生に聞いたほうがいいんじゃないのかな。僕は国語しか……」
「センセーのくせにわかんねえの?」
「……いや、」
彼には言うことを聞く気がないのだと察した僕は、緩く首を振って溜息を吐いた。しかたがないな、と呟きながら彼を国語準備室の中に招き入れると、彼はぱあっと明るい顔をしていそいそと入ってくる。
「あったけえ」
「この学校、廊下には暖房がないもんね」
暖房の設定温度を上げ、彼が座れるように机の横に椅子を置いた。慣れた様子でそこへ座り、彼はぐるぐるに巻いたマフラーを解く。
「それで?どこが分からないって?」
「ぜんぶ。……今まで授業まるまる休んでんのに、いきなしこんなの渡されたってわかんねえよ」
ふてくされた顔で彼は呟き、丸めていたせいでクセの付いたテキストの表紙をごしごし擦った。尖らせた唇が、かさかさに乾いている。
彼は僕が受け持つクラスの生徒で、二学期までは学校へ来ていなかった。ほとんど毎日の家庭訪問を経てようやく学校へ来てくれるようになったのだけれど、授業についていけないからと何度も拗ねては僕のところへやってくる。
また学校へ来なくなるよりはと、僕にできる限りのサポートを続けていた。
「うん。そうか、じゃあまずは、簡単なところからだね。最初から少しずつやっていこう」
「少しずつじゃ間に合わないじゃん……」
「だいじょうぶ。何度も言っただろう?」
不安げに瞳を揺らす彼をはげまし、シャープペンを持たせる。ノートは持ってきていないと言うから、不要になったプリントを渡した。
「この裏に書きなさい」
「ありがとセンセー」
屈託なく言った彼に問題を提示して、彼が躓いたところでやり方を教える。
「なんだ、センセー数学も出来るんじゃん」
「きちんと習ったのは何十年も前なんだけどねえ……意外と覚えているものだね」
感心したような彼に昔を懐かしみながら答えていると、古ぼけたスピーカーから校長先生が僕を呼び出す放送が流れる。
「呼び出しだ。ちょっといってくるから、君は次の問題をやっていなさいね。すぐに戻ると思うから」
素直に頷いた彼に微笑み、僕は廊下へ出た。


「ごめんごめん、遅くなってしまったね」
すぐに戻ると言ったのに、随分時間をおいてしまった。慌てて準備室へ戻ると、問題を解いていたはずの彼が机にうつぶせている。
「……どうかしたの?」
具合でも悪いのだろうか。そう思って近づき、顔を覗き込んでほっと息を吐く。
彼は眠っていた。すうすうと穏やかな寝息を立て、手にはシャープペンを握りしめたまま。
彼の顔の下でくしゃくしゃになっているプリントをそっと引きぬくと、やっておくように言った問題はきちんと終えている。
「よくできました……と」
机の中から取り出した赤ペンで大きな丸を付け、ふと時計を見上げた。もうすぐ下校時刻になる。今起こしてまた問題の続きをさせても、半端なところで終わってしまうだろう。
それならと、時間ぎりぎりまで寝かせておくことにした。
椅子に掛けて置いたままだった上着をそっと彼の背中に掛け、椅子に腰かけてじっと彼の寝顔を見つめる。
まだあどけなさの残る面立ちを眺めながら目を眇めた。
真夏の暑い日も、雨風のひどい台風の日も、僕は毎日彼の家に通った。教師としては失格かもしれないが、だから僕は彼に対してひときわ強く思い入れがある。もっと言うならば、決して生徒に抱いてはいけない感情もあった。
「できれば君が卒業するまで見守っていたかったんだけれどね……」
小さく呟き、彼の顔を覗き込んだ。
それは叶わない。彼が三年生になる前に、僕はこの学校を定年退職することになっている。僕の想いもそこでおしまいにしなければいけない。
「最後に、君が学校へ来る手伝いができてよかった。……どうか君が、来年になっても元気で登校していますように」
微笑みながら手を伸ばす。
(これくらいなら、許されるだろうか……)
そっと繋いでみた手は、とても暖かかった。