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震える肩

沈黙は時として何よりも雄弁である。アルバイト先の上司、桂木は正に沈黙を武器として備えた男だった。声を荒げて叱責するという事が無い。
急須をはたき落として冷めた湯を被った時も、観葉樹の鉢に足の小指をぶつけてそこらじゅうを飛び跳ねた時も、間抜けなバイトの様子を冷ややかに眺めて桂木は沈黙し、ただ肩を震わせては眉間に皺を寄せ、静かな怒りに耐えているようだった。怒られる自覚のある者としては、それが怒号よりも堪える。最近では視線すら合わせてくれなくなった。
「そりゃ、軽蔑されてもおかしくないですよね」
昼の休憩時にまで近くの公園で泣きを入れる不甲斐なさである。
大学OBにして桂木とは同期に当たる三谷はモンシロチョウチョを眺めるのに夢中で話を聞いているのかどうかも分からなかったが、不意に立ち上がり出店の方へノコノコ向かうと、たこ焼きパックを買って帰ってきた。真っ先に自分が頬張り、残りを「急いで食え」と押し付けると、携帯電話で「俺だ、今出られるか。なら近くの公園まで来い。
出店のある所だ」と素早く喋って一方的に切り上げた。
五分と立たぬ間に現れたのは桂木である。
自分の配下と三谷が親しげに歓談している風を見てやや不審がったようだったが、その不機嫌そうな桂木の方へ、「上司に、昼のご機嫌を伺ってごらん」と三谷に頭を押しやられ、さらには「笑え。にっこりとだ」とドスの効いた小声で命令されれば逆らう術は無い。
「ど、どうも」もっと気の利いた受け答えは出来ないのかと暗澹としたが、目の前の桂木の様子を見て顔色を変えた。上司はまたもや肩を震わせ、怒りを抑えているではないか。
「三谷さん、ヒドイ」唆した張本人の方へと振り向いたが、その三谷は桂木の伏せられた顔を覗き込み、やはりニタリ、と笑った。白い歯には見事に先ほどのたこ焼きの青海苔がくっついていた。
ふと音を感じた。自転車の空気入れから漏れ出づるような、そんな間抜けな音。唐突に桂木が膝から崩れ落ちた。ガクリとズボンに土をつけ、口から息を洩らしながら這うようにしてベンチにしがみつく。
こちら側からは表情は見えない。震える肩、痙攣する背を呆気に取られて見守っていると、「怯えることは無い。笑っているだけだから」ティッシュで歯を拭いながら三谷が説明を加えた。
「こいつは昔から笑い上戸でな、しかも絶対声を立てずに呼吸困難になるような苦しい笑い方をする。
普段、肩を震わせているのは君が喜劇役者顔負けの才能で彼を可笑しがらせるからだ。今こうしているのは、俺たちの歯に青海苔がくっついているのが堪えきれないからであって」
最近君と目も合わせないというのは、君の右の鼻毛が出ているからだ。
そう言って三谷は片鼻を押さえ、フン、と息を吐いた。
どうして教えてくれなかったんですかと抗議すると、済まんと全く悪びれない様子で謝った。教えない方が面白かっただろとでも言うに違いない。この数日の自分の事を考えると、顔から火が出る思いだった。早々に手入れをしなければならない。
もう行きますと挨拶してその場を立ち去った。桂木はまだ発作が収まっていないようだった。一度だけ振り返ると、三谷が桂木の耳元で「ふとんがふっとんだー」と囁いているのが見えた。息の通じ合ったその仲の良さを少しだけ羨ましく思った、ある麗らかな何でもない午後のこと。