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着物

小袖の手をご存知でありましょうか。
江戸は寛政年間、とある古刹へ一枚の小袖が納められました。
小袖とは文字通り、袖の小さく活動的に動けるような、公家から武家、庶民にまで広く着られた衣装のことです。
名の売れた遊女の亡き後、苦界をさすろうたその身の供養のためにと祀った衣に香を手向け、日々菩提を弔っていたところ、夜な夜なちりん、ちりんと鈴を鳴らす音がありました。
怪しみてそっと覗いてみたところ、衣紋掛けの小袖からぺらりとした紙のような白い手がすうっと伸び、壇の鈴棒をつまんでは、そうっと鈴を打つのです。
思えば人の、女の執着とは、儚くした後もその衣服に留まり、過ぎた浮き世を偲んでは、帰らぬ日々に、消えぬ未練に亡き身を妬くものなのでありましょうか。
ね、聞いてる?ちゃんと聞いてる?

「いや、そんなポエムは今はいいですから、背中!背中、のいて! 借り物なんです、皺になっちゃう!」
羽織くらい、自分で着られますから、と必死で叫んでも、背中にくなりと圧し掛かった男は聞き分けなく甘えるように密着してくる。彼の言う小袖の手の話ではないが、羽織の肩越しににゅうと手が伸ばされて、かいぐりかいぐりと頭を撫で、ときおり目測を誤った指が鼻の穴に突撃する。こうした時はやりたいようにさせておくのが一番の得策なのだが、このはしゃぎようは普段の比ではない。

「しかしよく似合うねえ。馬子にも衣装、とは言わないよ。自慢の息子だもん」
今度はくるりと前面に回って、頭の天辺から足袋の先までしげしげと見やる。紋付羽織に、長着に、袴。日本男子の礼装である。
ひどく気合が入れられているのは今日が成人式だからだ。
一生に一度の記念だからと、彼は本人よりも嬉々として準備に奔走していた。当の成人は満面の笑みの親を前にして途方に暮れるのみだ。
「あっと、そろそろだね。式の会場へ行くのに、友達と駅で待ち合わせしてるんだろ。ほい、外に出た出た」
皺になるというのに、背中を両手でぐいぐいと玄関の方へ押してくる。
その背を頭ひとつ分追い抜かして、もう幾年も過ぎた。今は逆らわず、為されるがままに滑るように廊下を渡り、雪駄の鼻緒をひっかけて表に出る。

「ああ、いい天気だね。小春日和だ」
君を引き取って二人でこの家にやってきた日のことを思い出すよと、庭の梅に目を注ぎながら義父は目尻に皺を寄せた。黄の蝋梅が盛りを誇っている。まさに晴れの日、晴れ着だねと手をかざし、空を仰ぎ見た。
つられて見上げた空はとても高く、澄んでいた。
「お父さん。駅まで、一緒に歩いて行きませんか」
今日は暖かいし、散歩代りにね、と顔を窺うようなねだり方をすると、彼の目はまん丸に見開き、ついて来て欲しいだなんてまだまだ子供だね、とにっこり笑った。春の陽のようだ、と思った。
過去はすでに遠く、現在は不透明に流れる。
見透かし難い霧の中を、それでも貴方の隣で歩いて生きたい。
その手を取って、共に未来を。