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最初で最後のキス

「待って」
飛び込んできた主の焦燥の声に、私は出来る限りの穏やかさを持った微笑で応えた。
作り笑いではなかった。それは、彼に向ける心からの笑みだった。
自分の命で、この幼く、優しく、美しく、いとおしい存在を救うことが出来るのだ。
何をためらうことがある。何を恐れることがある。それはむしろ、胸を張って誇りに思うべき行為だった。
ひざを折り、目線を低くして彼のそれと合わせる。
「いいえ、私はもう行きます」
そう告げれば、彼は駄々をこねる子供そのままに顔を赤くしていやいやと首を振った。
「お前は俺の教育係だろう! 俺の命令を聞かないか!!」
「……我侭を言って、申し訳ありません」
私は道化のようにその言葉を繰り返し繰り返し、彼へ何度も口にした。
そのたびに、彼は小さな拳でポカポカと私の胸の辺りを殴りつけた。
見上げる彼の視線を痛いほど感じながら、私は彼を胸のうちへと抱き寄せた。
腕の中で金色の巻き毛頭がふわふわと左右に揺れたのを見て、彼が泣いているのが分かった。
ぐすぐすと洟をすする音を立てる彼に、私は思わず指先に込める力を強くした。
その細身の体を抱きしめて、私は噛んで含めるように優しく言った。
「私が外の者を引き付けている間に、地下からお逃げください。
大丈夫、貴方なら、きっと出来ますから」
ひっくひっくとしゃくりあげる彼を、壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめる。
彼の体温をそこに感じるだけで幸せだったが、どうせだからと私は分不相応な願い事を口にした。
「最後に、もうひとつだけ我侭を聞いてくださいますか?」
その言葉に首を小さく横に傾いだ彼に、私は続けた。
「……私に、貴方のキスを」
彼は、ぱちぱちと目を瞬かせた。まるで、そんなことでいいのかと言っている様だった。
「お願いできますか?」
けれど重ねて問えば、彼はこくりと頷いて「分かった」と口にした。
私の首筋に、彼の細い腕が絡められる。触れた指先から、動揺が振動として伝わった。
小さな彼の唇が、ゆっくりと、緩慢な動きで私の顔に近づく。
桜色の唇が自身のそれと重ねられたとき、私は思った。

――ああ、これで死ぬのは怖くない。
彼の人生最初のキスが、私の人生最後のキスになるのだから。