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馬と騎手

「よう、来ると思ってたぜ」
古めかしい厩舎の入り口に立つと、中で男がウィスキーを持った片手を上げて俺に振り向いた。
奥のほうで蛍光灯が小さく唸りながらチカチカと寿命を主張していたが、
男のいる場所を照らしているのは、ほとんどが窓から入る冴え冴えしい秋の月明かりだ。
白い光が男の向こうに横たわる黒く滑らかな毛にそそがれている。
俺は黙って、男の背後へと近付いた。
ここで過ごした日々よりも、離れていた時間のほうがずいぶん長くなったはずなのに、
目をつぶっても歩いていけそうなほど、俺の身体はこの場所を覚えていた。
同じくらい、男の後姿も。
「今日のレース見たぞ。さすが、中央競馬会のホープ」
背を向けたまま、男が言った。
俺はやはり黙ったまま、柵を潜り男の側に腰を下ろす。
そして、横たわる大きな黒い美しい毛に、手をあてた。
ひんやりと、それは静かに冷たくあった。
「…安らかな顔をしてる」
「…苦しまないで逝けたからな」
男もまた、手を置き、ゆっくりとそれを撫でた。
愛しさのこもった手で何度も何度も撫でていた。
「こいつはさ…」
しばらくして、男が呟く。
「初めて任された馬だった」
それはかつて何度も聞かされた話だった。
「最初はまったく勝てなくてさ」
男は、普段の彼には似つかわしくない小さな声で、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「で、新米のお前が乗った途端、奇跡的に初優勝」
ははは、と少し大げさに笑い声を上げて、俺に顔を向けた。
目の周りが赤いのは、酒のせいだけではないだろう。

男は天を仰ぐようにウィスキーの瓶を傾け酒を呷った。
そしてまた愉快そうに笑う。
「お前以外が乗ったんじゃダメなんだよな。全然ダメ。こいつはお前にぞっこんだった」
手に持ったままの瓶がちゃぽんっと軽い音を立てたので目を遣ると、それは既に空に近い状態だ。
「…いい女だった。こんないい女、他に見たことねぇよ」
「…俺もそう思います」
「こんないい女に惚れられて、お前は幸せもんだ」
「そうですね」
だんだん呂律が怪しくなる男の手から、それとなく酒瓶を取る。
そう強くはないくせに、いったいどれだけ飲んだのか。
さらに高揚した風で俺に顔を近づけてくる。
「こいつ種付けがまったくうまくいかなかったの知ってるか?まぁ…なんだ、お前が最後のオトコ?」
そう言って、何故か急に黙り込み、俺を見つめた。
俺は目を、逸らせるわけがなかった。
しばらくの沈黙の後、
「…もっと会いに来て欲しかった」
言って、目の前の亡骸を抱き寄せるようにして、顔を埋めた。