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遠くて近いあのひと

夏の終わりの夕日がアスリート達の肉体を赤く照らしている。

「今日はもう上がれ」というコーチの言葉に頭を下げて彼は
練習を終えた。
コーチがストップウォッチを見ながらクリップボードに
書き込んでいるのが見える。

彼は挨拶を寄越す後輩たちにおざなりに答えながらトラックを離れ、
大股で私に歩み寄る。
「調子はどうです?」
そう尋ねる私に彼は黙って唇を噛んだ。
私はそれ以上彼に返答を促すことなく、自分の仕事を始めた。

今シーズンの彼の成績は決して悪くなかった。
しかし世界のトップアスリートの集まる国際大会で通用する
レベルではない。
アスリートの旬は残酷なほどに短い。
彼の年齢を考えればそろそろ第一線で競技していくことが
難しくなってくる頃だ。今シーズンがラストチャンスだと彼も、その周囲も
暗黙のうちに知っている。
そのラストチャンスを前に彼は思うように伸びない成績に焦り、
自分自身に怒っているのだ。
いや、私から見ると彼は怯えているようにも見えた。
競技の世界しか知らない彼がその世界から追い立てられようと
しているのだ。しかもその世界に自分の証を刻み付けることが
出来ないままに。

私は彼の姿を見るのが好きだった。
世界の若いライバル達と、自分の年齢と、自分自身の精神と、
恐怖という見えない敵と、戦う彼は美しかった。
彼の目は常に自分自身と遠くを見つめており
トレーナーとして常に近くにいる私に向けられることはなかったが、
それさえも戦士たる彼らしく好ましかった。

私は彼の下腿三頭筋とハムストリングスを丹念に揉みほぐしていく。
彼の鍛え上げられた肉体ににこうして触れるのもあと
残りわずかの日々だと思いながら。
うつ伏せになったまま彼はごく小さな声でつぶやいた。
「夏ももう終わりですね」

その嗚咽を堪えた様なかすれた声に
私は指先が震えるのをどうしても止められなかった。