※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

壁一枚の隔たり

カタカタカタ、とタイプ音が狭い部屋に響く。
部屋の電気は切れかけているから、
ライトスタンドとディスプレイの青白い光だけが部屋を照らす主な光源。
いつものようにパソコンを立ち上げる、いつもと同じ午後十時。
そろそろだ。
ディスプレイから目を離して軽く伸びをした。
マグカップに手を伸ばしたとき、望んだその音を耳がしっかりと捕らえる。
ガチャリと響く音も、聞き慣れたいつものもの。
「…………」
息を殺して軽く耳をそばだてる。薄い壁の向こうでキッと椅子が鳴り、
すぐにブウ…ゥンとパソコンの起動音が聞こえてきた。
家賃が安いだけが取り柄のマンションだ。
プライバシーなんてあるようでないのかもしれない。
「……っと、やべ」
ほの青く光るディスプレイに目を戻す。キーボードに指を滑らせて、
またいつものスレッドを開く。カタカタ、カタカタ、微かに重なるタイプ音。
そうだったらいいのに、な。声には出さずに呟く。
いつものようにパソコンを立ち上げる、いつもと同じ十時。
いつもの板、いつものスレッド、流れは速いけれど見失ったことはない固定ハンドル。
顔も見えない相手に惹かれているのが分かったのは、いつからだろう?
微かな希望が確信に変わりそうな揺らぎを持ち始めたのは、いつからだろう?

『俺いっつも火曜日だけは早く帰るwwwww
んでずっと録画してた碁とか見ながらメシ喰うwwwwwww』
『うはwwwwテラシブスwwwww』
知っている。火曜日の夜だけはあの碁の解説員のナレーションが聞こえることを。
『ていうか俺マジヤバスwwww隣の部屋の男マジ好きかもwwwっうぇwww』
『それ俺wwwwうはwwケコーンwww』
『じゃあ今晩壁モールス信号して告るwwwwwぅえぅえwww』
その日の夜に聞こえた、ためらいがちなノック音。あれは、なんだ。
今にも消えてしまいそうに震える音に、一瞬固まった。
無視することもその考えを振り払うこともたやすい、けれど。
目を細めて画面を眺めた。液晶の中で光る文字の彼に恋をしている。
少しずつ彼のことを知るたびに嬉しくなる。苦しいほどに。
顔も知らないのかもしれない。でも、もしかしたら。
思った瞬間、指が走った。伝えたいそれが光る文字になっていく。
もしかしたらでもいい。ひょっとしたらでもいい。ただ後悔したくはないから。
掌を壁にぺたりと付けて、エンターキーを叩いた。
この壁一枚。それだけを隔てた向こうであることを、願った。