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身代わり

渡り廊下を抜け、目当ての部屋に入る手前でふと足が止まった。
寂しい家だ。何処も清潔で徒広く、水底のように静まり返っている。
それも仕方の無い話かも知れない。此処は、死者を迎える為の家なのだから。
胸の内でそう独りごちて障子を開ける。
「…今日は、随分と遅かったじゃないか」
入口に背を向けたまま、屋敷の主は独り言のように呟いた。

いつもと何の変りも無い逢瀬だった。床に引き倒し、うつ伏せに組み敷いて抱いた。
畳を擦る衣擦れの音に、呻くような息遣いが切れ切れに混じる。
強く押付けた背が目の前で二度三度と震えた。泣いているのだろうか、ふとそんな事を思う。
然し顔を見る事はしない。名を呼ぶ事も、言葉を掛ける事さえも。そういう約束だった。
それが何を意味するのかは百も承知だ。
彼は二年も前に死んだ男の事を未だ忘れられずに居るのだ。こんな関係は尋常ではない。
頼みを聞入れた事を、今更のように悔やんだ。失敗であったと今なら解る。
それと気付かぬうちに離れられなくなった。後戻りの利かない処まで来てしまった。
行場の無いが執着が積もってゆくうちに、いつか彼を憎むようになるのだろうか。
互いの孤独に絡め捕られたまま、逃れようも無く憎悪の坂を落ちてゆくのだろうか。

いつしか日が落ちていた。部屋に灯された薄明りが、尚更に闇の深さを意識させる。
彼は身を起こし、痛いような顔をして此方へ手をのばした。親指が頬に触れる。
驚きとばつの悪さに顔を伏せたが今更どうしようもなかった。泣いているのは自分の方だ。
素知らぬ顔をして黙って居ればいいものを、どうして今日に限って、こんな。
血が滲む程強く唇を噛締める。決して口にすることの許されない言葉が今にも溢れ出しそうだった。
水はさらさらと流れ続けたが、火照った頬にその温度を感じる事は出来なかった。