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君の背中で眠らせて

新幹線の発車時刻まで、あと1分。
ホームは、長い階段の上にあり、歩いていたのでは間に合わない。
あれに乗り遅れたら、次の仕事に遅刻してしまう。
前の会議が、想像以上に長引いたりなんかしたからだ。
そんな時に限って、すれ違ったサラリーマンに、階段で足をひっかけられた。
とっさに左足をついたら、階段を踏み外してしまった。足首に激痛が走る。
無様に転んで、階段の角に膝をついた。
あまりの痛さで声が出そうになったけれど、2、3歩先を走っていた尾上が振り返ったので、
耐えてすぐに起き上がる。部下の前で、無様な姿は見せられない。
「主任、どうかしました?」
「大丈夫」
手短に言って、俺は走り出そうとした。しかし、左足がそれを許してくれなかった。
「大丈夫ちゃうやないですか」
尾上が、腕をつかんだ。振り払いたいが、今はそれどころじゃない。新幹線に乗り遅れる。
左足は、完璧に筋がイかれたようで、地面に足をつくだけでも、脳天を痛みが襲った。
尾上の手を借りて、ヒョコヒョコと、ケンケンしながら階段をのぼるが、無常にも新幹線の
発車を知らせるベルが鳴り響く。
「…あかん。俺のことは置いてってくれ」
俺は断腸の思いで、その言葉を口にした。仕事に穴あけたら、どうなるか分からない。
尾上は、俺の言葉に、本気でマズい状態なんだと気づき、一瞬迷った顔をした。
アホ、迷ってる暇なんてあるか。早く行け。お前なら、一人でも場を持たせることは
できるはずだ。しかし、尾上は、意を決したように、俺の前にひざまづいた。
「最後まであきらめたらダメです。乗ってください」
「はぁ!?」
「おんぶしたげます」
アホ。君はアホか。
しかし、俺がその背中に乗らない限り、尾上は動きそうにない。
迷ったが、二人で遅刻か、二人で間に合うかやったら…間に合う方にかけるしかないか。
俺が乗ると、尾上は立ち上がった。ちょっとよろけるが、前を見ている。
俺よりもガタイはいいけど、俺だって男だ。筋肉ついて重い男を担いで、そんなに早く走れる
わけがないのに、尾上は足を前に出して、ヨタヨタと走り出した。
アホだな、君は。でも…行けるかも。

そして、新幹線のドアが閉まる寸前、尾上の右足がドアに入った。
もう一度開くドア。入る俺たち。駅員さん、駆け込み乗車、ごめんなさい。
尾上は、満面の笑顔で振り返った。
「間に合いましたね。主任、仕事に遅刻したら、半月近く落ち込んじゃうから、必死でしたよ」
至近距離の笑顔と、思いがけない言葉。
あぁ、一ヶ月前、列車事故で遅刻した時のこと、気づいていたのか。
俺は、尾上のまっすぐな言葉に、思わず胸を熱くさせてしまった。
目の奥がジンとして、鼻がツンとする。顔が赤くなっていくのも分かって、うつむいた。
「あれ? どうしました? 眠くなりました?」
「アホ」
尾上のアホな発想に、つっこみを入れたが、その声は無様にかすれていた。
感動したのだ。俺の仕事に対する姿勢とか、努力とか、そういう人に見せない点を、
尾上が分かっていてくれたことに。仕事での関係でしかない、と思っていたのに。
「…ん? 『君の背中で眠らせて』ってやつですか? ええですよ。そういうことなら、座席まで
 連れてってあげますから、眠ってください。最近、忙しかったですもんねぇ」
「ちょっと黙っててくれ…」
うつむいたからって、背中で眠りたいと思ってるなんて、どういう脳してたら考えつくんだ。
しかし俺は、顔もあげられず、声も出せず、ただうつむくことしかできなかった。
「恥ずかしがらんでええですよ。スーツしわにならんように、座席に降ろしますから、眠って下さい」
「うるさい! 歩き出すな! ちょっと待ってくれたら、降りて自分で歩くから!」
涙でゆがんだ声が聞かれたかもしれない。
尾上は、歩きだそうとした足をひっこめた。そして、壁に肩でもたれて、俺が降りようとするのを
待ってくれた。
俺は、涙をひっこめるために目を閉じた。
「…ほんまに、主任やったら、俺の背中ぐらいいつでも貸しますよ…。
 主任が頑張ってるの、よく知ってますから」
背中ごしに、尾上のささやきが聞こえた。

今は、もうちょっとだけでいいけど…。また今度…君の背中で眠らせて。
心の中でだけ、返事しておいた。