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兄→友→妹

あの人が、町に帰って来ているらしい。

 噂好きの姥さんに聞いた話を伝えた途端、兄の顔が引き攣った。
 しかし瞬間表情は霧散し、いつもの気難しげな態に戻る。
 お手伝いの姥さんは夕には帰り、兄妹だけの食卓は、兄の寡黙もあって常に静かだ。近頃は日に一杯だけの晩酌を煽って、兄は息をついた。
「そうか。なら、いっぺん久方ぶりに呼ばうが、ええかね」
「あにさんの好きにすればええじゃに」
「そうかね」「そうよ」
 久しいなと、呟く兄の箸から米粒が零れる。それと気づかず箸先を口に含んでから、ひょっとした風に無骨な手元を見下ろした。
 私は知らぬふりで菜っ葉を食みながら、正座で足袋のつま先を身じろがせた。
「──離れに呼ぶがよろしよ」
 番茶を飲み下し、息をついでから言うと、うたれたように兄の顔が上がる。
「久方ぶりじゃけえ、積る話もあるやろう。女の前じゃあできん話も多か」
「……、あいつが残念がるわいが」
「何言うてんの。昔みたいに二人で話ィ」
 柱時計の振子が、寂々とした家に小さな音を立てる。
 兄は黙りこくって、茶碗にじっと視線を落とした。
 あの人のことを考えているのだろう。線の細い、多弁な、兄とは真逆のような快活な笑みをもったあの人。親代わりの兄と共に、がんぜない頃から私をよく可愛がってくれた。
「あにさんの思うようにすりゃあええ」 
 私は言って、兄を横目で窺う。
 いつになくぼんやりと、手元を眺める瞳の黒さ。太く男らしい眉。角張った頤からがっしりとした身体に伸びた太く筋肉質な首筋。その首に、あの人の薄い唇が寄せられる様を想像した。
 幼い日にみた光景。苦しげに呻く兄と、哀しそうに向けられた、あの人の双眸。
 あの人は、戸の節目から覗く私に気づいていた。
「──あいつは、おまんに会いとぅと思うぞ」
「何言うてんのん。遠慮せんとき」
 わざと笑って、私ははばかりにと卓から離れた。
 もの言いたげに追い来る兄の視線が、結局は私に何も伝えないことを、私はよく知っている。

 はばかりの中で、目を閉じ、私は耳を両手で塞いだ。
 私はあの人を、きっと、兄のように、家族のように愛していた。