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わがままだけど常識人の「天才」×優しいけれど常識が身についていない「秀才」

初めて会ったときの笑顔が今でも忘れられない。
「ずっとずっと、あなたにお会いする事を夢見ていたんです!」
飛びつくように私の両手を握って、私の目を一心不乱に覗き込んで、そう言った。

私はそれまでこんなに無遠慮な笑顔がこの世に存在する事を知らなかった。
それは何か、向けられたこちらの方が不安に陥るような…そこまで無防備に親愛を、感情を
さらけ出して大丈夫だろうかと戸惑いを覚えるような、そんな笑顔だった。
…ましてやその後、その笑顔が常に私の最も身近にあるようになるとは想像もしなかった。

私は頑固で気難しく扱い辛い偏屈研究者として有名だったが、私に言わせれば周囲の連中が
あまりにも察しが悪く不勉強で使えない、お気楽者な烏合の衆だというだけの話だった。
しかしあの男はあらゆる意味で他の者達とは違っていた。研究に対する熱意は私にも引けを
取らず、世界中のあらゆる学論に対し飽く事なく興味を示し、私の機嫌の善し悪しなど全く
気にかけずにいつでも目を輝かせて新しい着想を語った。もちろん彼の知識も、学者として
のセンスも掛け値無しに一流のものだったので、彼と二人で研究室にいる時間は私にとって
も充実したものだった。彼は私が生まれて初めて出会った、対等に話ができる相手だった。

「偏屈な天才と浮世離れした秀才の蜜月だって、言われてるそうですよ。僕たち。」
ある日の朝食の席で、満面の笑みを浮かべてそう言う。…なにを今更。いや、というより
「…何が嬉しい、それの」
この男と付き合うようになって二年、顔に表れる感情が、そっくりそのまま奴の心象状態だ
ということはこれまでの経験から明らかになった。…しかし、奴がそれらの感情を導き出す
きっかけというものが、しばしば私には理解しかねるのだった。
「あなたがファーストネームで呼ぶのって、僕だけですよね?」
…たびたび、日常会話の進行においても相互の感覚のずれが生じる。しかし、たとえ相手が
私の質問に答えなくても、相手の投げかけた問いに対してはできる限り誠実に返答する事が
私の信条だ。いいのだ、日常会話などというものは、研究と違って一人一人が自分の信条を
守ってさえいれば…相手にも同じルールを強いる必要はない。
「…おまえだけという事はない。」
ガシャン
と奴の皿が音をたてた。続いて手からナイフとフォークをぽろぽろと取り落とし、突然立ち
上がると私が声をかける間もなくラウンジから出て行ってしまった。

私は朝食を終えると、奴の食べ残しをキッチンで包み分けてもらったものを持って研究室に
戻った。奴は窓際の皮椅子に足を折って座って本を読んでいたが、私が入ると顔を伏せた。
「おまえが残したものだ。手の空いた時に食べればいい。」
「あ……ありがとうございます。あの、すみません…つい…。」
まったく、こんなに申し訳なさそうな顔をされたら誰も責められはしない。
「……あの…誰、なんですか?」
「何が」
「あなたが、僕以外にファーストネームで呼ぶ人です」
「…家族だが。」
本当にしばしば…この男のことは、理解しかねる。

いつかこの男にわからせてやれる日が来るだろうか。そんなに私の言葉に一喜一憂する必要
などないという事を。おまえに私しかいない、それと同じ理由で、私にもまたおまえしかい
ないのだから。