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ハンドクリーム

 かし、とシャッターを切る音が聞こえる。
 それを気にすることもなく、私は読んでいた本のページを繰る。
 ざらついた紙の端を摘んだ拍子に、またカシリと音がした。

 写真を撮ることが趣味だという彼が、私の周りに纏わり付いてくるようになったのは
いつだっただろうか?

 彼は私を……いや、正確には私の「手」を愛しているのだという。
 爪の形、関節から関節の長さ、手首から親指にかける線、軽く握ると突出する骨の鋭角。
 そのどれもが彼を魅了し、呼吸を忘れるほどに目を奪われるのだと。
 そんなよく分からない熱弁を、彼は冷めた目で見守る私に向けて振るった。

 彼の撮る絵には、必ず私の手が入っている。
 逆に、私の顔は入っていない。
 彼の興味を惹くものは、私ではなく私のこの「手」なのだ。
 私はそれが煩わしかった。

 今こうして、私の周囲を忙しなく移動し、何の前触れも無くシャッターを切り続ける男を
無視し続けるのは、私なりの意地だ。
 彼が注視するこの手を、見せびらかすでもなく隠すでもなく。
 ただそこにあるだけのものとして振る舞い、彼の熱い視線をやり過ごす。
 そうでもしなければ、私は自分で自分の腕を切り落としてしまいたくなるのだ。


 私はこの手が憎い。
 彼の視線を、心を、意識を愛情を、ただ一身に受けるこの「手」が。
 それなのに。
 憎いと思うのに、手放すことは出来なかった。
 そうすれば、彼の興味が他へと逸れるかもしれない。
 それが怖かった。

 だから私は、毎夜女のように己の掌に花の匂いのするクリームを塗りつける。
 指先から掌へ向け、甲から爪先に向け。
 こんな手など無くなってしまえばいい、明日も彼を魅了する姿のままでありますように。
 相反する願いを、念を込めて花の匂いを掌に擦り付ける。

 私にとって、この匂いは花の蜜だ。
 彼という名の昆虫を、惹き付けるための道具に過ぎない。
 花の香りに引き寄せられて、いつかこの手に触れて来れば良いと。
 カメラ越しでは満足出来ず、彼がこの手に触れてきた時が勝負だ。

 私は彼の好むこの掌を一杯に広げ、彼を捕まえよう。
 私に付属した部品ではなく、私自身で彼を魅了できるように。

 さあ来い。
 私はいつでも君を狙っている。
 この匂いは、君のためだけに私が纏う、恋の花だ。