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低い声で

彼の声を、今もちゃんと覚えているんだ。

そう言うと、彼は少しさみしそうに眉を寄せた。いくらかためらう様子を
見せて、その後になにかを続けようとしたので、私は手を上げてその言葉
を遮った。たった数センチ手を動かしただけで、彼は私が言いたいことを
理解し、口を閉じてくれる。彼もそういうところがあったな、と懐かしく
思って、椅子の背に体を沈める。

彼を忘れることは出来ないよ。君が嫌いなわけじゃない。ただ僕には、彼
しかいなかったし、これからもそうじゃないかと、そんな気がしてならな
いんだよ。

彼の顔を正面から見ることは出来なかった。視線を逸らした先には、大き
な手がある。その先を辿ると、柔らかな筋肉のついた腕。力が入っている
せいか、肘が少し曲げられていた。その仕草が似ているのだ、彼に。最初
に見たときから、ずっとそう思っていた。あれはいつのことだったろうか。

君なら分かってくれると思う。僕はこのままのほうがいいんだ。君もきっ
とそうだよ。昔のことを引きずり続ける男なんて、関わらないほうが余程
いい。

彼はうるさそうに少し首を振って、それでも、と呟いた。低い声。そうだ、
この声だけは、さっぱり似ていないのだった。彼のものよりも低くて、そ
れでいて聞き取りやすく、聞くたびに何故だか木管楽器を思い浮かべる。
初めてこの声を聞いた時、まずい、と思った。私を見たまなざしよりも、
熱い掌よりも、この声を聞いた瞬間に距離を取らなくてはならない、と感
じたのだった。そうしなくては引きずられると。

それでも俺には、あんたを好きになる以外の選択肢がないんだ。それだけ
なんだよ。

その声を聞いて、私はそっと天を仰いだ。君はどうしてこんなものを残し
てくれた。君が唯一残したもの。君の息子。声が耳を通り抜けて、小さく
身震いする。触れた肘掛けが冷たくて、大きく息を吐いた。