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籠の鳥

「逃がしてあげるよ」
彼はそう言って、ふわりと笑った。

弟が生まれたのは俺が5歳のときのこと。
初めて弟を見たのは病院の厚いガラス越しだった。
透明な箱の中の沢山のコードが繋がった小さな赤い体。
「優しくしてあげてね。守ってあげてね。」
大好きな母の擦れた涙声。
弟は、心臓に欠陥を持って誕生した。
医者は弟が生まれたその日に、弟の余命を告げる。
「お子さんは、成人を迎えることはできないでしょう」と―――。

母が退院して家に戻ってきても、弟が家に帰ってくることはなかった。
母は毎日病院に通い、俺も週に何度かは付いて行く。
自分一人で通える様になった小学校高学年には、学校の後に病院へ行くことは日課になっていたが、中学へ入ると同時に母の薦めで塾へ行き始め、会いに行く頻度はまたすくなくなった。

「お兄ちゃん、最近来てくれる回数減ったね。淋しいー」
唇を尖らせて言う弟は可愛かった。
優しく、優しくしよう。
大事に、大事に守っていこう。
初めて弟を見たときの、母の涙声を思い出す。

「優しくしてあげてね。守ってあげてね。」


「お兄ちゃん。言いづらいのだけど…あの子に会いにくるの、このままもっと減らして欲しいの。」
「え?どうして…?」
高校受験の間はいつもより会いに行く回数を減らしてしまったから
これからはもっと沢山会いに行こうと考えていた矢先のことだった。
「あの子ね、お兄ちゃんがくる日は疲れるから嫌だって。………あんまり来なくていいって。」

―――わかってしまった、母の嘘が。
覗き見た母の瞳には後ろめたさや困惑とともに、確かな嫉妬が見えたから。
母は大切に守ってきた第二子を独占したいのだ。
真っ白な籠に閉じ込められた大事な大事な鳥が、他の者を頼るのに耐えられなかったのだろう。
自分勝手な人。そう言って母を蔑むことは簡単なように思えた。
けれど俺にはそれができなかった。
擦れた涙声を思い出す。あの切実な思いの籠もったあの言葉を。
「優しくしてあげてね。守ってあげてね。」

俺は頷いた。
籠の鳥の笑顔を思い浮べながら。

弟に会いに行くのは月に1度程になった。
はじめは会いに行く度に口を尖らせ、もっと来てほしいと訴えた弟も
やがて会いに行く頻度については何も言わなくなり、会うたびにあのねあのね、と自分のことを話し続けることもなくなって、俺の姿を見ると一度柔らかく微笑んで、俺の話を促すようになった。
健康ならば中学に上がるはずの年には、明るいというより柔らかい雰囲気を持った優しげな少年になっていた。
「おかえりなさい、兄さん」
バイトから家に帰ると弟がいた。
年に数回帰ってくることはあるが、今日帰ってくるとは聞いていなかったので驚いた。
「兄さんのこと驚かそうと思って母さんに内緒にしてもらったんだ」
「すげー驚いたよ」
嬉しげに微笑む弟は今年で17歳になった。
外に出る機会がないからか真っ白で細い体は、しかしかなり小柄な俺よりかは身長が高い。
「母さんは?」
「あー、なんたらかんたらの会の集まりだって。」
患者の親族の作った会のことだろう。母はそういったものにかなり積極的に参加し、
弟が健康な生活を送れる様になる為の移植についての情報を集めにかけ回っている。
しかし、ふと思う。
母は弟にぴったりなドナーが現われたとしても、移植手術を受けさせようとするだろうか、と。
「兄さん?どうしたの?」
「ん、何でもないよ。」
「そう?………ねえ、兄さんに話したいことがあるんだ。兄さんの部屋に行ってもいい?」
「いいよ、先行ってて。手え洗ってお茶持ってく」
「俺、お茶入れるよ?」
「いいよ、お前にやらせるの恐いから」
「ひどいなー。………まあ、俺も恐いからお願いするね」
弟は階段を上がって行った。
弟にお茶を運ばせるなんてとんでもない。
あいつは紅茶の茶葉をカップに直接入れて熱湯を注ぎ、
尚且つ、それをキッチンからリビングに運ぶまでにぶちまける奴だ。
恐すぎる。

紅茶を入れて部屋に行くと、弟はベッドに座っていた。
ベッドサイドの小さなテーブルに盆を置き、弟の隣に座って紅茶を手渡す。
「で、話って?」
「んーその前に、兄さんの近況聞きたい。」
「ん?大したことしてないぞ。大学の授業はもうほとんどないからバイトばっかかな。」
「へー」
ここ最近の他愛のない話をする。弟は微笑んだまま話を聞いていた。

カップの中の紅茶がなくなった頃、俺の最近の話が終わった。
「紅茶、また入れてこようか?」
弟は首を横に振り、俺のカップを取り上げ、自分のカップと共に盆に戻した。
「俺の話ってさ。」
急に視界が弟でいっぱいになり、状況が掴めず呆気にとられる。
「兄さんをね、捕まえてしまおうとか、そんな話。」
弟の顔がぼやける程に近くなり、唇に柔らかいものが一瞬触れ、離れた。
今度は耳許に弟の吐息を感じる。
「兄さんをね、愛してるんだよ。」
驚きに目を見開き、弟の顔を見ようと顔を横に向けた。
「愛してるんだよ、誰よりも、何よりも。」
弟は微笑んでいた。柔らかく、優しげに。
「愛してるのは、兄さんだけだよ。母さんも好きだと思っていたけど………俺から兄さんを引き離したってわかった瞬間、恐いほど恨むことができた。」
耳許に感じていた吐息が、首筋に沿って移動し、首の根元に鋭い痛みを感じた。
「抱くよ、兄さんを。」
硬直した体を無理矢理動かし、両手で弟の肩を押し遣ろうとしたら、素早く手首を押さえ付けられた。
大きいが、細くて真っ白で綺麗な手に。
「兄さんが必死で抵抗すれば、ひ弱な俺なんてすぐどかせるよ。でも、俺はすごいひ弱だから、突き飛ばされたりして打ち所が悪ければ、死んじゃうかもね。」
俺は腕を動かすのをやめた。
弟は顔をあげ、俺と目を合わせる。
眉をひそめる弟の顔が間近にある。ひどく、ひどく辛そうな顔。
「兄さんの優しいところ、大好きで愛しいけど………同じくらい憎いよ」
違う。
コレは優しさなんかじゃない。
俺は狡いんだ。
お前のその言葉を免罪符にして、『誰よりも』と言われて惨いほどの喜びを感じることを
自分に許してしまったんだよ

自分の息も荒くなっているが、自分よりも隣で息を荒げている弟が心配になって、彼の頭に手をのばす。
何度か髪を梳くと手首を捕られ、彼の口元まで運ばれて手のひらにキスされた。
「大丈夫だよ。一回セックスしたくらいじゃ死なない」
そう言った後、苦笑をして俺の手を自分の頬に当てて言葉を続ける。
「兄さんは、俺なんか早く死んでくれた方が幸せになれるだろうけどね。」
驚きに目を見開いていると、弟の顔が近づいてきて、唇に触れるだけのキスをされた。
「逃げられないよ、兄さんは。優しいから、俺を振り切って逃げることなんか、できない。」
自分の狡さを嫌悪して唇を噛み締めると、今度は舌で唇をゆっくりと舐められた。
「大丈夫だよ、逃がしてあけるから。」
違う。
自分の表情が弟に誤解されたことを感じて首を横に振ろうとしたのに
その前に彼の手に顎を捕られ固定されてしまった。
「ちゃんと逃がしてあげるよ。俺が死んだら。」
彼はそう言って、ふわりと笑う。
「すぐだよ。」
彼が嫌がるのはわかっていたのに
俺は涙をとめることができなかった。