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キセキ

「復学おめでとう」
十二分考えて出た台詞を口にすると、ようやく俺の存在に気付いた南野は振り向いた。
「ありがとう」と短く答えて微笑む頬は、痛ましいほど痩せている。
久しく無人だった研究室の中は、たった半日でずいぶんと片付いていた。
珪酸塩鉱物の結晶の成り立ちにしか興味なかったはずの教授が、息子の年のような舞台役者と一緒に冷たい滝壺に飛び込んだ一年前。教授を文字通り敬愛していた南野は壊れた。
教授の死の話題が出た時、得たりとばかりに老いらくの青年愛について下世話な一説をぶち上げた助教授の顔面に拳を叩き込んだ南野は、明らかに助教授を殺す気だった。
俺は人生で、あそこまで殺気に満ちた人間を見たことはない。

退学になった後、南野は故郷に戻ったという話を聞いたが、俺はそこを訪ねることはしなかった。
そもそも一高時代の同級生という縁だけで、深い交流があったわけではない。
俺は遺跡にしか興味がないし、南野は石ころと教授にしか興味がなかった。
お互いに何の接点もない。心配する俺がおかしいのだ。
『南野が復籍した』と聞いたのが半日前。南野に前歯をへし折られたあの助教授は、何やら別件で問題を起こして、とっくの昔に大学を去っていた。
「なんだろうこれは。……ああ、ダイヤモンドだ。いるかい?」
物思いにふける俺に差し出されたシャーレには、小指の先に乗りそうなほど小さなダイヤモンドの原石が入っていた。
「もらっても仕様がない」
断ると、シャーレはすぐに引っ込められ、『不要』と書かれた大きな箱に放り込まれた。
小さくとも高価な宝石よりも、冷えた溶岩の方がこの男には大切なのだ。俺が生きている人間よりも、数千年前に死んだ人間の骨を尊ぶように。
「戻って来るとは思わなかった」
「僕もだよ」
分厚い研究ノート、今は亡き教授の研究の記録を手に、南野は笑った。
「でも、やっぱり先生の歩んだ道を進みたくて。母にはね、変な石ころなんかじゃなくて、花のようなお嬢さんと付き合いなさいと言われたのだけど」
言いながら、南野の細い手はてきぱきと必要な記録と不要な記録を分けている。
「散ってしまう花より、永遠に近しい石が好きだよ、僕は。先生もそうおっしゃっていたんだけどね……」
「違ったな」
「違ったねぇ」

傾いた秋の日差しを受けて、乾いた室内に舞うほこりがちらちらと輝いていた。
「人間は愛せないとおっしゃってたんだけどねぇ。きっと、奇跡が起きたんだろうね、彼と会った時に」
歌うような声だった。哀切の歌だ。置いてきぼりにされた、子供の歌。

南野の言うとおり、教授に奇跡が起きたのだろうと俺は思う。
石よりも花を、孤独よりも愛を、名誉よりも不名誉を、価値観の逆転の奇跡。
その手の奇跡は、わりあいたやすく起きるのだろう。そう、炭素からダイヤモンドが生まれるよりたやすく。南野を見る俺の身の上に、いままさに起きているように。