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犬と猫

 いつも彼の接触は唐突で、そして気紛れだ。

 例えば昼休憩、手洗い場にでも行こうかと席を立ったその時。突然がしっと背後から右肩に腕を回される。
 そして左の耳元に響く、囁くような恋人の笑い声。
「どうした、辛気臭い顔して」
 君のことを考えてたんだ。そう言えたらどれだけいいか。
「……この分だと今日も残業になりそうで。今夜こそ早く帰れると思ってたのにな」
「え、お前残業なのかよ。なんだ、今夜は飲みに誘うつもりだったのに」
 意外にも、とっさに取り繕った別の理由に大きな反応が返ってきた。
 頸を曲げて見上げた彼の表情は心から残念そうにしゅんと沈んでいて、まるで散歩に連れて行ってもらえないと
知ってしょげる犬のよう。
 可愛い。
 どくんと心臓が跳ねた瞬間、密着した彼の体温と匂いを一層強く意識する。こんなのいつものことなのに。
「今から昼食なんだ。手を洗いに行くから」
 それだけで意図が通じたらしく、回された腕がどけられる。だけどほっとする間もなく、次の衝撃がやってくる。
 今度は左の耳たぶに。
「へえ。お前ってここにほくろあったんだな」
 つんつんぷにぷにと指先が僕の耳をいじり回す。くすぐったい。でもそれ以上に、至近距離に迫る彼の眼差しが、
頸にかかる彼の吐息が、僕の背筋にぞわぞわと奇妙な震えを呼ぶ。

 そう、これはいつものこと。いつもいつも彼はこうして、肩に腕を回したり背中を叩いたり耳を撫でたりなどと
ひっきりなしに僕にじゃれついてくる。
 それは恋人同士になる前、ただの同僚だった頃からずっとそうだったけど、今の関係になってからはもっと強烈に
なってきた。周りに人がいないからって、今が真昼間だってことにも、ここが社内だってこともお構いなしだ。
 ――いや、その辺りはまだいい。問題は他にある。

「なあ。帰り、飲みに付き合えよ。残業手伝ってやるからさ」
 遊んで、としっぽを振る犬の幻覚が彼の笑顔と重なる。
 犬っぽいってよく言われる。そう前に彼が口にしたその時は、「確かに」と心中密かに同意したものなのだが。
どうやらそうでもないらしい事を、今の関係になって僕は初めて知った。
 そして、それが一番の問題なのである。

「俺は終わったぞ、お前は?」
「こっちもあと少し」
 窓から覗く景色はとっぷりと暮れていて、オフィスに残っているのも僕達二人だけ。気楽な声で呼びかけてきた後、
無造作に彼が席を立って僕のデスクに歩み寄る。
 椅子に座る僕の背後から、操作中のPCの画面を覗き込んでくる。その動作と同時に、ふわりと香る彼の匂い。
 僕の右肩に彼が片手を置く。もう何か手伝う事はないのか、と傍から零された問いかけが左耳をくすぐる。
 もう限界だ。そう思った瞬間には、相手の頭を掴んでその唇を塞いでいた。

「むぐ、うッ」
 口付けは一秒も経たずに引っぺがされた。離れた唇を追いかけて椅子から立ち上がれば、彼が飛びすさるように
後ろへ下がる。薄闇の中でもはっきりと判る赤い頬。かわいい。撫でてしまいたい。
 堪らず手を伸ばせばまた数歩後ずさり。仕方なく歩み寄ったら壁際にまで逃げられる。
「そんなに逃げなくてもいいじゃないか」
「普通逃げるだろ!? なんだよいきなりっ」
 君のせいだ。という言葉の代わりに伸ばした手はまた避けられた。思わずむっとする。
 普段は自分からあんなにひっついてくるくせに、僕が手を伸ばせばすぐ逃げる。まるで野良猫だ。
 嫌われてるわけじゃない。それは、遊び盛りの子犬みたいな昼の君を見れば判る。ただ夜の空気に対して過敏と
いうか、非常に照れ屋なだけなのだ。そう知ってはいるけど不満は燻る。
 いつも、こちらから抱き締めるだけでも一苦労で。なのに昼間はスキンシップの嵐なんてあんまりだ。
 昼は犬で夜は猫。せめてどちらかに統一してくれよ。
「……いきなりキスしたのは謝るから」
 優しく囁きながら、彼に向かって右掌を差し出す。びくっと相手の肩が跳ねる。
「逃げないでくれ。そばに居たいんだ」
 渾身の猫撫で声が効いてくれたのかどうか。
 壁から僅かに彼の背が浮く。伸ばした指先が相手のそれに触れた。

 彼が犬っぽいのか猫っぽいのか、実際のところは僕には判らない。
 でも、理性を飛ばした後の啼き声なんかは子猫のそれに似ているかもしれない。
 また聞きたいな。
 そう僕は思いつつも、やっと腕の中に収まってくれた彼の首筋へとつうっと舌先を這わせてゆく。か細く震える
吐息を聴きながら。
 横に一周、輪を描くように。