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悪事に手を染める主と、心を痛めつつも手伝うことに喜びを感じる執事

旦那さまは近頃本当にお痩せになられた。

「辻野。いたのか」
「先刻から」
「ちょうどいい、コーヒーを」
「只今」

カップを受け取る指は頼りなく、いやに美しい関節の上に青い血管が模様のように走っている。
標本にしてしまいたくなるような、旦那さまの手。
悲しい手だ。
旦那さまの心がいくら拒もうと、この器官ばかりは、背徳の震えに耐えながら与えられた仕事を全うするほかない。



旦那さまはお煙草を嗜まれない。しかし、私は灰皿を片付ける。

「辻野」
「何でございましょう」
「お前は……私を軽蔑するか」
「ご冗談を」

灰皿を使うのは旦那さまの旧いご友人である。
旦那さまが断れないのを知っていて、件の仕事を持ち掛けてきたご友人。
昔から、旦那さまはその名前を至極嬉しそうに口にされていた。
しかし今、旦那さまがその名前を仰るとき、苦しみの皺がその額になかったことはない。
ご友人はいずれ、旦那さまをお売になるだろう。そして旦那さまもそれを知っている。

「辻野…………少し」
「只今」


旦那さまの肌に傷がつかないよう、シャツのボタンを丁寧に外す。
ひやりとした胸に口付けると、頭上でかすかに喉が震えた。
哀れな、旦那さまの喉。
気持ちが昂り、愛する人間の名を呼びたがるその心に逆らって、この喉は沈黙を貫かねばならない。



がちゃり、という不躾な音とともに置き時計が落ちた。

「辻野、辻野」

うわごとのように旦那さまが呟く。
冷たい床がお体にさわらぬよう旦那さまの跳ねる背中をかばいながら、私は落ちてもなお動き続ける針を眺めた。

旦那さまのご失脚は、この針がどれほど動いた後だろう。
権力を失い、富を奪われ、ご友人に捨てられた旦那さまは、とうとう私に気付いてくださるだろうか。
その暁には、旦那さまを私一人のものにできるだろうか。


「辻野、辻野、私を許してくれ、辻野」

私は知っている。旦那さまが私の「許さない」というただ一言をお待ちになっていることを。
そうしてご自身も同じようにご友人を断罪し、その因縁を無に帰してしまわれたいのだということを。

私は旦那さまの汗ばむ額に口付けながら世にも残酷な言葉を繰り返した。

「旦那さま、旦那さま。そう仰らないでください。旦那さまは立派にお仕事を全うされております。旦那さまはご立派です。どうかそのままで、どうかそのままで」

旦那さまは悲しげに息を詰めると、爪を立てて私にしがみついた。

旦那さま。悪事に堪えるお心をお持ちでない、お可哀想な旦那さま。
私を除いた全てを失う瞬間も、そう遠くはないだろう。
旦那さまはどう振る舞われるだろう。絶望に自刃なされるか、正気を失われ、呆けてしまわれるか。
いずれにせよ最期のとき、旦那さまの傍らにいられるのは私一人なのだ。

「辻野…………あ、あ」

時計の針よ、回れ。