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夏の情緒 ---- 男が仕事から帰ると、敷物が草を編んだものになり暖簾や部屋のしつらえが夏情緒溢れるものになっていた。 ちりん、と涼やかな音は風鈴だろうか。ご丁寧に蚊遣りの豚まで焚いてあった。 「おかえりなさい、今日もお疲れ様でした」 「ただいま」 そして笑顔で男を出迎えた若者は浴衣を着ていた。 もう暑くなりましたからね、いいかげんに模様替えしないとと思いまして、そうしたら浴衣も一緒に出てきてつい着てみたくなったんですよ。 そういいながら荷物を受け取った若者は遠慮がちに顔を伏して、続けた。 「もしよろしければ、あの、私の父の浴衣があなたに合うと思うんですが、どうでしょうか」 それだけのことを言うのにどれだけ緊張しているのだろうか。 うつむいたまま耳を赤くしている若者の腰を抱き寄せ、男はわざと耳元で返事をする。 それだけで腰を抜かしてへたり込んでしまった若者を見て、男の心に充足感がじわりとひろがる。 蹴落として、踏みつけて、男は成り上がった。 油断している奴が悪いとばかりにすりより懐柔し牙をむいてわがものとした。 そして頂点に立つと、欲が出て、まことに勝手なことだが他に熱中できる、人生をかけられるものを探し始めた。 釣り、植物、登山、車、女と手当たり次第に手を出したが、得られるものはなかった。 そんなさなか、蹴落とした人々のうちの一人である老人が亡くなったという噂が流れた。 老いた身に凋落は堪えたのだろう。 そう思い直ぐに忘れ去ろうとしたものの、ふと下衆な興味が沸き、何食わぬ顔をして老人の通夜に出ることにした。 そのときにこの若者と出会ったのだ。 老人の唯一の親族であり孫であった彼は聡明で、男が正体を明かした際も少しも動揺せずにいた。 そして微笑んでこう告げたのだった。 「もう蓄えも、家も、なにもありませんからあなたが満足するようなものは何も差し上げられません。 そして祖父は、あなたに蹴落とされたとは少しも思っていませんでしたよ。 あなたの成功を知るたびに、あの時助けてやってよかった、と喜んでいました。 ですから、あなたは何も気になさらず、どうかこれからもお幸せに」 広い家も、働かずに食っていける金も、唯一の肉親すらもなくし、端から見たら転落人生としか言いようのない状況でそんなことが言える。 愚かであるが高貴とはこのような思想のことを言うのではないだろうか。 男は打たれたように立ちすくみ、目の前の若者に呆けた顔を晒すことしか出来なかった。 浴衣を着た男は、縁側で大きな氷できんきんに冷えた泡盛を堪能していた。 一緒に盆においてあるのは、茄子の天ぷらと浅漬けに汁気たっぷりの瓜。どれも、若者が調理したもので非常に美味だ。 隣に座った若者は、竹と和紙で出来たうちわを遣いながら氷出しの緑茶をすすっている。 「このなす、旨いな」 「ありがとうございます」 にこり、と若者は微笑む。 こういった穏やかな時間など必要ないと思っていたころがうその様に、男は若者と過ごす時間を大切に思うようになった。 巻き上げた古い民家を若者に買い戻し、招かれるままに何度も通うようになってもう何年にもなる。 若者は家については感謝をしたものの、援助などは一切拒み文筆業で一人分の食い扶持を稼いでいた。 「うりもどうぞ、おいしいですよ」 言いながら若者は自分もひとかけら瓜をつまみ、口へ運ぶ。すばやい動作だったがなにぶん滴るほどの汁気だったので、手首までを濡らしてしまう。 その手を掴み、男はねっとりと舌でなめあげた。 ひゅ、と息を呑む音が聞こえた後、ちいさな声がやめてください、と告げた。 付き合いが長くなるうちに、男は何者にも代えがたい感情を若者に対して抱いていることに気付いた。 それは得たことのない家族愛か、遠い昔に忘れ去った恋情かはわからない。 しかし、人生をこの若者に捧げてもいいかと思えるほどの執着と、自分の持ち得ない高貴さへの尊敬の念があったのは確かだ。 そして若者も、何がしかの好意を男に抱いているらしいと解ると、自然二人の距離は近づいた。 もつれ合うようにして部屋に引き上げた二人を見送るように、酒器の氷がカランと音を立てた。 ----   [[幼馴染み>16-649]] ----

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