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書生同士 ----  茫として、天井の染みを見上げていた。熱に浮かされた頭が重い。  枕元に置かれた湯冷ましは、先に空にしてしまった。  喉が渇いた、と思うが、立って家人に求める気力も無かった。申し訳程度の手伝いで居候している身であれば、尚更世話になることの済まなさもある。  だから廊下をきしきしと歩む音を聞き、襖が静かに開けられて、その向こうに同じ書生の男を見て取った時、照一は内心安堵した。 「テルさん、御加減は如何です」  問われた声に返事を返すのも億劫で、うん、とだけ喉の奥で唸る。柔和な顔を笑ますのは、隣室に住まいを間借りし、同じ大學に籍を置く斎藤だった。  同じ書生と云えど、法律を学ぶ斎藤と、生物学に傾倒した照一では、まるで畑が違う。  また地方の農家の出である照一に対して、斎藤は上京してきた身とはいえ、中々の名家の出と聞く。  論じることの出来る事物など殆どないから面白くもなかろうに、一つばかり年長の照一に気でも遣っているのか、斎藤は何かと話し掛けて呉れた。  世間話から、身を寄せている商家の人々の話だの、友人の羽目を外した話だのを聞かせて呉れたこともあった。  本当は英語が苦手でもない癖に、取寄せた書物の訳などを頼ってくることもあった。 「まだ、良くなさそうだ。浅野さんが持って行けと、呉れましたよ」  この家の勤勉なお手伝いの名を出しながら、斎藤が枕元に膝をついて、片手に乗った盆を置く。  新しい湯飲みと、無花果を載せた皿とが照一の目に入る。そろそろと身を起こして湯飲みを口に運ぶと、少しだけ頭が明瞭になった。 「……有難い。浅野さんにも、宜しく、云っておいてくれ」 「はい。ああ、それからタイさんにね、帰りに遇いました」 「泰助が」 「教授が、高月の休むなら余程酷かろうって心配していたそうですよ。……それで、本を幾つか預かって」  高月は照一の姓である。同級の寺田泰助は、照一を介して斎藤とも顔馴染みだった。今では余程、斎藤との方が仲が良いように見えることもある。 「テルさんが読みたがっていたのが、数冊手に入ったからと」  小脇に抱えていた書物の表紙を見せられ、その題字を呆けた眼で追って、思わず手を伸ばしかけた。  途端に、斎藤の手に掴まって夏蒲団の中へ押し戻される。予め判っていたかのような素早さだった。 「駄目ですよ。どうせ、今読んだって頭に入りやしませんよ。それで夜更かしなぞして、風邪の治りだけ遅くするんですから。  此れは今のテルさんには毒ですから、僕の手元に置いておきます」  正論だと思って、照一は押し黙る。斎藤は何時も口が達者だ。法学の道には入れぬな、としばしば思うが、他の者が如何であるか実の所はよく知らない。  ――ただ、己の手を掴んだ斎藤の手が、徐々に温くなっていくのが勿体無いと、ふと思った。 「読む為には早く治すことです」 「……ああ。そうしよう」 「余り遅いと、僕が先に見てしまいますからね。お大事に」  立ち去る素振りを見せた斎藤の手を、照一は思わず掴み直した。  そのまま引っ張って甲を額へあてがうと、まだそちらは少し、冷やりとして心地良い。吃驚したような斎藤の声が、頭にぐわんと響いた。  こんなものは、体温を下げる役には立たない。  判っていても、何故だか酷く惜しかった。 「テルさん、テルさん。今水枕でも貰って来ますから……」  慌てたような斎藤の声が、遠くなる。済まない、斉藤、と口にした積りであったが、定かではない。  聞こえ出した寝息に硬直を解いて、斎藤は複雑な顔で照一を見下ろす。 「思い違えたら如何するんです」  日頃斎藤を頼りもしない、此方から話し掛けなければ口も利かないような風情だから、不覚にも動揺してしまった。  疎まれているかと落ち込んで、寺田に笑われた事もあったというのに。心音が頭に響いて、煩い。  斎藤はそっと書籍を傍らに置いて、諸手で力の抜けた照一の手を包む。 「……葉っぱを見る目の少し位、僕に呉れても罰は当たらないでしょうに」  屹度研究の道にそのまま進むのであろう彼と、法曹の道へ進む心算である自分の、道が別れる時まではもうそう遠くない。その時、せめて友人で在れるだろうか。  斎藤の手が、じわりと熱くなる。  頑強な彼のこと、明日にはすっかり快復してしまうだろう。それでも、もう少し此の侭でいて呉れてもいいと、不謹慎な事を思った。 ---- [[ヤクザと公務員>26-789]] ----

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