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梅は咲いたが桜はまだかいな
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男は孤独な人間を思い通りにする手管に自信があった。
孤独について誰よりも多くを知り尽くしている、そう思っていたからだ。
だから、もちろんその身寄りのない資産家の跡取りの青年にも、
莫大な金をいずれ必ず自分のものにする、そのつもりで近づいていた。
出会ったのは初夏。
閉め切った屋敷中の窓にかかる重々しいビロードのカーテンを、新しい絹のカーテンに変えて回った。
夏の日差しの下、全力で伸びる草木と死闘を繰り広げながら、荒れ放題の庭を手入れした。
整えた庭園に青年を引っぱり出しては、明るい光を浴びた瑞々しい芝の上に優しく寝転ばせて、
世界で一番君が愛おしい。そう語る眼差しで、青年の顔を覗き込んだ。
その夏、青年は男に「ありがとう」と告げた。
秋に男は青年を連れ回すために、車を用立てた。
男はこれまでの人生の中で自分が一番信頼する車種を選んだ。それは、いわゆる高級車ではなかった。
青年が人恋しさを覚えるように、なるべくさびれた地方を、ゆっくりと旅行して回った。
旅から帰ったあと、青年は男に「ありがとう」と告げた。
「あなたに、あと、この車にも」
男は、青年が少しだけ笑う顔を見た。
その冬は風の強い日が多く、日もあまりさすことがなかった。
冬の間、男は芝居や夜の音楽会に青年を連れて行く予定をたてていたが、
青年はあまり屋敷から出たがらなかった。こころなしか、食事の量も減った。
男が叱るような口調で、しかしあくまで甘く、不健康な生活をたしなめると、
青年は困ったような顔で口ごもり、そして「ありがとう…本当に」とだけ男に告げた。
「梅が、そろそろ咲いているかな。」
ある朝、青年からそう声をかけられて、男は驚いた。
これまで青年から自分に話しかけてくることが、一度もなかったからだ。
男はちょっと待って、と言うと屋敷を飛び出し、二十分後に庭先でクラクションを鳴らした。
「咲いていた。見に行こう。」
小さな商店街のはずれの川べりに、梅の木が白い花をつけていた。
男は、車を止めると、梅の花を見ている青年の後ろ頭を見つめた。
「おりる?」
そう声をかけると、青年が男を振り返ったので、二人は目が合った。
「ありがとう。」
青年からその言葉を聞いたのは、何度目だっただろうか。
「あなたに、お礼をしようと決めていたんです。…梅の花が咲いたら。」
小さな梅の木を愛でながら、青年がそう言った。
男はその言葉に微笑んで、青年の肩を抱き寄せると、顔を近づけて低く呟いた。
「本当?それじゃあ…」
「土地と株と現金は、すぐにお譲りできる手続きが済んでいるんです。」
男は手を止めた。青年の口調はいつもの控えめな、ためらうような話し方だった。
「もし、あなたがとある企業の役員職に一年間就いてくだされば、いずれ系列会社の利権のほうも」
渡す段取りが整ったと、青年は、何故かどこか申し訳無さそうに告げた。
なんだ。目的が果たされたのか。思っていたよりほんの少し早く。
「今まで、ありがとう。」
青年はそう言って男から目をそらしたが、男は青年から目をそらさなかった。
「今更そんなことを言うなら、咲いた花をつぼみに戻して返してくれ。」
「…え?」
「俺はね、孤独な人間を意のままにするのは得意だが、孤独じゃない人間の扱いにはてんで不慣れなんだ。
どおりで思い通りにならないはずだよ、君も…俺自身も。」
男は事情が飲み込めない青年を素早く一度抱きしめると、そのまま車に押し込んだ。
桜はまだだけど、冬はもう終わろうとしていた。
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[[古書店主人と貧乏学生>12.5-369]]
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