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窓越しに見える人
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その人はいつだって、窓の向うに居た。
明治帝の御代に建てられたのだという格式高い洋館の、美しく磨かれた硝子窓に、白い顔がすいと映る。
高い窓の向うのことだから、年の頃はまるで解らぬ。年若い少年のようでもあるし、幼な顔の三十路なのだと説かれれば、そんな気もしてこようかと思う。
何時もほんの少し斜め下を俯いて、額に濡れ羽の髪をかけ物憂げにしている。
果たして彼の人は、黒檀の机に日がな古今の書物でも広げているのか。それとも絹の寝具に半身を起こし、儚くなる日を待つ身であるのかと、私の想像は勝手なままに膨らむばかりであった。
その洋館の傍を走る道は、私のよく通る野道である。
私は山の手で、磁器などを焼く工房に師事していたが、まだとても使い物になる腕ではなかったから、やれ使いだの買物だので、事あるごとに街へ下らされるのは私であった。
その度に、私は窓に映る人影を気にかける。いつからそうであったのか、最早どうでも良いと思う。
あの人の姿を見かけると、どうしようもなく胸が浮立って、同時に酷く心の臓を潰されるような心地になる。
あの人は、どんな人だろう。
どんな声で、どんな風に喋るのだろう。
何を憂えて顔を曇らせ、何を思って窓辺に居るのだろう。
もう一寸でも背伸びれば、あの人を近く見られようか。
獣の耳を持ったならば、その声とは言わずとも、吐息の一つも聞けようか。
日に日に増して胸焦がす想いは、甘美であると同時に苦痛をもたらし、道行きは歓喜であり憂鬱でもあった。
それがその日は、違ったのである。
いつもの窓にその人はおらず、落胆と安堵を抱えながら先へ進もうとした矢先のことだった。
「もし」
声は佳麗だった。
高くはなく、低くもなく、ただ謡うように明瞭である。
私は何だかくらくらとして、幻を見ているのではないかと思った。眩暈の向うに、窓越しのあの人が立っていた。
「突然に失礼を致します、ですが」
窓越しに目にするような着物ではなく、糊の利いた白いシャツに、洒落たベストと洋装である。急に自分が恥ずかしく、顔が熱くなるような心地がした。
「いつも凝と館を見ていらっしゃる。だから声をお掛けしたのです。山の手の、陶匠のお弟子さんでしょう。この家に興味がおありですか」
「あ、ああ、いえ、その……はい」
あなたに遇いたかったのです、などとまさか口に出来る筈もない。
しどろもどろになりながら頷く私をどう見たのか、その人は優しく微笑んで、それが余計に私の頬を熱くさせる。
「宜しければ、お上がりになりませんか。実を申せば少々退屈をしているのです。……ああでも、もしお忙しいのなら」
「い、いえ、いいえ! 私の用事なんて些細なものです、勿論その、もし構わないのでしたら喜んで」
慌てて言ったので、声が引っ繰り返りそうだった。己のみっともなさに泣きたくなる。
しかし恥以上に喜びが胸を満たして、夢心地になりながら私は招かれた。
ああ。
もしかすれば、眼前のこの人は窓硝子から落ちてきた影法師なのやもしれぬ。
莫迦なことを考えながら、それでも良い、例え相手が妖怪でも構わないと私は思った。
――いつも窓越しに、此処を見る貴方のことを、少し知ってみたかったのです、とはにかんでその人は告げた。
天つ空より降り立った天人の如き窓越しの佳人は、私の心臓を益々捕えて離さなかったのだ。
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[[恋のライバル同士だったのに>25-849]]
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