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全部嘘だったんだ
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祖国があって、組織があった。そこにはお互いを同志と呼ぶ人たちが出入りしていた。
彼らは熱心に話をしたり、武器の手入れをしたり、肖像画の男を崇めたりして過ごす。
暇なときには銃の扱い方や、理想の世界や、悪い政治家の話を僕に聞かせたりもした。
気まぐれに、煙草やキャンディをくれることもあった。
決まった時間に「先生」がやって来る。長い時間をかけて一通りの勉強をする。
僕が十七歳になった日、「先生」は言った。
「君は優等生だ。祖国のため、立派な働きを期待しているよ。同志」
返答に迷っていると、彼は親しげな仕草で僕の肩を叩いた。
「大丈夫、君は本来は存在しないはずの人間なんだからね。何者にだってなれる」
名前と経歴と身分証明書をもらって、僕は組織の人間になった。
外へ出て人と接触し、情報を持って帰る。
特に満足感も不満もなかった。蜜蜂にでもなった気分だ。
新しい標的は軍の人間だった。男性、階級は少佐。資料の内容を順繰りに暗記していく。
男は女よりも親しくなるのに時間が掛かるし、殺す場合も余計に手間が掛かる。
面倒な仕事になりそうな気がして、ポケットに入っているキャンディを無意識に手で探った。
件の少佐は模範的な軍人だった。実績でのし上がってきた、優秀なる叩き上げだ。
酒は好まず、賄賂も受け付けない。賭博に至ってはむしろ取り締まる側の人間だ。
軍人ならばもしやと思って一度ベッドに誘ってみたが、反応はにべもなかった。
背を向けられてずきりとしたのは、きっとなけなしの職業意識が傷ついたせいだろう。
ここまで取り入りにくい相手も珍しい。呆れ半分に、けれど興味深く毎日観察していた。
厳格なタイプだが意外に抜けたところもある。部下からは畏れられつつ慕われている。
右が利き手だが、たまに左手でものを書いている。書類は丁寧に端を揃える。
仕事とは直接関係のないささやかな情報が、日に日につもっていった。
「私物の持ち込みは禁止されているはずだが」
思いがけず背後から声が掛かり、一瞬身が竦んだ。
「あ……」
食べようと取り出していたキャンディを取り上げられる。
視線で追うと、無人だと思っていた廊下に少佐が立っていた。
いくらなんでもぼんやりしすぎだ。近頃の僕はどうかしている。
「あ、ではない。これは私が没収する」
包み紙から中身を取り出すと、そのまま口の中に放る。
呆気にとられる僕に向かって、彼は懐かしい味だと言って笑った。
それから、並んで少し他愛のない話をした。
意外と子供っぽい彼の笑顔が脳裏にちらついて、夜はなかなか寝付かれなかった。
市井の人がこの気持ちを何と呼ぶのか、僕だって知らないではない。
面倒事になりそうな予感だけが的を射て、寝具の中で人知れず頭を抱えた。
「本当の名前を、教えてくれないか」
ある日、穏やかにそう切り出されて僕は息をのんだ。
「君が名乗っているのは、本名ではないのだろう?」
名前ならいくつも用意されている。彼の疑惑を取り繕う言い訳だって山ほど持っている。
滑らかに口をついて出てくるはずの嘘が、なぜか喉元につかえて息苦しくなる。
何も言えずに立ち尽くしていると、彼は灰色の眼を伏せて寂しげにため息をついた。
たとえ真実をあげたいと望んでも、僕は本当のことを何ひとつ持ちあわせていなかった。
戸籍上存在しない人間には、名前も出生地も誕生日もない。そのことを初めて辛いと思った。
何者にでもなれるといつか「先生」は言ったけど、正体のない僕は結局何者にもなれないのだ。
偽名、捏造された経歴、訓練された表情。全ての嘘を剥いたあとに残るものが何もない。
今、鋭く胸を刺す感情も嘘だったらどんなによかっただろう。
そう思った途端、ふと手元が狂ったように、意図とは関係なく涙が溢れて止まらなくなった。
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