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人間と人外 ---- その青白い男は、やはり雨の日に現れた。 庭先に浮かぶぼんやりとした陽炎が、徐々に確りと姿形を成していき、 地面に落ちていくはずの雨が、いつの間にか男の肩で撥ねている。 足を地につけているのに泥濘に足跡が残らないのは何故だろう、と ぼんやり考えているうちに、男は軒先の三歩ほど先で立ち止まった。 雨に打たれるその男の肌は異様に白く、瞳の色は水底の泥を思わせる暗い色をしている。 その場に佇んだまま視線を彷徨わせる男に、俺は自分から視線を合わせてやる。 男の目があまり利かないことに気づいたのは、二月ほど前だ。 「そろそろ来る頃だと思っていた」 「決心は、ついたか」 俺の言葉を無視した唐突な問いかけにも、いい加減慣れていた。 雨に打たれながら、男は繰り返す。 「決心は、ついたか」 「いいや」 俺が首を振るのも、半ばお決まりの挨拶になっていたが それでもこの男は毎回、律儀に困ったような顔をする。 「まだ、時間が足りぬか」 「……。そこの睡蓮な」 男の問いには答えず、俺は軒先の瓶を顎で示した。 「お前に言われたとおり、三丁先の池の水を汲んできたら生き返った」 「…………」 「今年は花が咲くといいが」 「…………咲く」 沈黙の後、男は微かに頷いた。 「実を言うと、俺は睡蓮の花というものを見たことがない」 この家に越してきたのが去年の夏の終わり頃で、そのときからこの瓶はここにあったが、 その頃は花どころか葉も茎も枯れかけていた。 「絵や写真で見たことはあるんだが。赤い花と白い花があるのだろう?」 「白が咲く」 瓶の方に視線をやって、男は僅かに目を細めた。 「嬉しそうだな」と言ってみると、また困ったような表情になる。 この男の僅かな表情の変化を読み取れるようになったのはいつからだろう。 「生き返ったのはいいとして、今度は瓶の水が凍ってしまわないかと心配している」 「枯れはしない」 「だといいが。それにしても、この辺りの土地は、毎年雪が積もるのか? ここ数日物凄く寒い」 しかし、男は答えなかった。 「私と共には、行けぬか」 その声は消え入りそうなのに、雨音に掻き消されることなく、はっきりと耳に届く。 目を逸らそうとしたが、灰色の瞳に捉えられて叶わない。 水底の泥が僅かに揺らいだのを見て、俺は奥歯を噛み締めた。 「逝けない」 それはとうの前から出ていて、しかし胸のうちに仕舞いこんでいた答えだった。 男は動かずに、こちらをじっと見つめている。 両目を閉じてしまいたい気持ちを抑え、俺は男を真っ直ぐ見て、声を押し出した。 「このままでは駄目か。これからも、お前とこうして会うのは許されないか」 ほんのひと時、お前とこうやって他愛のないことを語るのは許されないか。 この庭で、一緒に睡蓮の花を愛でることは許されないのか。 「俺は、お前とこうして話すのを気に入っている」 最初はこちら側にだけ未練があった。だから猶予を乞うた。逃げ出すつもりだった。 しかしいつの頃からか、この男がやってくるのを待つようになった。 そして、どちらかを選んでどちらかを捨てることに、迷うようになっていた。 「お前と共に生きていくことは、出来ないのか」 「……ひとは、欲深い」 半ば独り言のように、男は呟いた。 「しかし、私とて、あのとき直ぐに攫うべきだった」 庭に植えられた木々がざわりと揺れる。 雨脚が先刻より弱くなっていることに気づく。 そして、雨が再び男の身体をすり抜けていることにも。 「待て」 ――骸となったお前を引きずり込めば、共に暮らせたものを。 ――だが、お前を知った今となっては まるで水の底にいるかのように、男の声が辺りに反響している。 俺は縁側から飛び降りて、雨の中に手を伸ばす。 「待ってくれ、俺は」 ――雪は、七日の後に積もる。 その言葉を最後に陽炎は虚空に消え、伸ばした手が青白い男に触れることはなかった。 ----   [[ふみなさい>9-699]] ----

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