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こたつ出しました ---- イチョウの葉が、扇の如く宙を舞っている。 見蕩れていると、突如けたたましい犬の声が耳をつんざいた。 一瞬、ほんの一瞬ぐっと身を竦ませる。何でもない些細な事にも怯えて反応してしまうのは、昔からの悪い癖だ。 てやんでえ、ばっきゃろおおおめえええ。 間を置かず、男の胴間声が後に続いて響き渡る。立ち止まっていた歩を進め、吹き抜けの廊下を伝って縁側に出ると、ごましお頭で半纏姿の男が庭に倒れ伏し、子牛ほどもある大きな犬の下敷きになって襲われていた。否、じゃれつかれていた。 「あああんた、来てくれたか、この犬っこをどけてくれえ!」 「今度は何をやったんですか、松さん」 「知らねえよう、一仕事終えて息継ぎしてたら、いきなりまみれついてきゃあがったんだ」 「仕事が済むのを待ってたんでしょう、ははは。マッハ有明は本当に松さんが好きですねえ」 金色の毛皮を震わせて、犬が屋敷抱えの庭師の顔を唾液でべろんべろんにしている様子を微笑ましく見守っていると、ふと馴染みの痛みが、肩を、背中を、体中に残る傷の跡を、懐かしい甘さを伴って走り抜けていくのを感じた。 「おまえの姿は目障りだ。這い蹲って犬の真似でもしているがいい。 人の言葉を喋るな。鳴くんだ。しゃがみこんで、舐めろ。 歯を立てたりしてみろ、どうなるか分かっているだろう?」 鞭のしなる音。硬い靴の踵で打ち据えられる音。過去に消えたはずの音が耳の奥に潜み、幻聴となって蘇る。 そう、全て幻聴だ。なかなか思い通りにならない己の心に、辛抱強く何度も言い聞かせた。 「旦那を探しているのかい」 「ええ。居場所は分かっているんですが」 「なら、桜の手入れが終わったと伝えといてくれ。気になすってたからな。いやその前に犬を、犬をおおお舌があああ」 承りました、と戯れる彼らを尻目に屋敷の奥へと足を向けた。 今時の桜は葉を紅く色づかせ、夕日の照る頃になるとなお一層その姿を松明のように燃えたたせる。春には煙の化身のような霞む花弁を、夏に若葉の瑞々しい生命力を、見送ることのできる日々のなんと幸福なことか。 「その、御主人様って呼称は何とかならないの。気味が悪いんだが、え、すぐには無理。定着しちゃってるからか。じゃ、せめて様を取って呼んでくれ。近所の奥さん連中もそうしてるから。 私は未婚なんだけどね。君にはしっかり働いてもらうよ。 春には、花見。庭の桜は私が子供の時からあるんだ。お弁当を重箱に詰めて、桜餅を用意して。薫風の頃なら、柏餅も忘れずにね。夏には流し素麺のできるほど庭は広いし、そう、近くに野原もあるから、秋桜も見に行こう、マッハ有明を連れて。 楽しみだね。楽しみだねーえ」 なんの気紛れであれ、この身をすくって拾い上げて下さった時から変わらぬあの方の笑顔を、一生忘れはしまい。ここに在る日々の全てが、自分にとっては連綿と続く奇跡だ。 調理場の土間には入り口に尻を向け、一心不乱に巨大な冷蔵庫の冷凍室をまさぐっている男がいる。冬の準備が出来たら、せっかくだからアイスクリームを食うのだと、小一時間前に子供のようにはしゃいでいた男だ。 「御主人、御主人。こたつ出しましたよ」 その言葉にばね仕掛けのように跳ね上がり、カップアイスを抱えたまま男がくるりとこちらを向いた。 「やっぱり、バニラだろ、バニラ」 にんまりと極限まで相好を崩したその笑みは愛らしく、ひどく妖怪じみていて、せめて布団にこぼさぬよう、机に起き上がって食わさねばと、新たな決意を促すのだった。 ----   [[× 男と女 ○ 犬と飼い主>8-799]] ----

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