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「では今日はここまで。試験はテキストと板書から出題するので、よく復習するように」 教授が言うと、教室にいる学生たちは一斉に帰り支度を始めた。 最後の時間帯の授業なので、後は家路に着くなり部活に出るなり、皆自由の身になるのだ。 俺は前の席にいる後輩に声をかけた。 「さっちゃん、この授業のノート取ってる?」 「まあ一応は」 振り返った佐原は、困ったように眉毛を寄せて、若干情けない表情をしている。 “一応”と口では言うが、根が真面目なこの後輩のノートはいつも要領よくまとめられていて、とても頭に入りやすい。 「コピーさして」 「えぇ、またですか?」 眼鏡を直しながらそう返されたので、時間ないから早く貸せよ、と背中を小突いてやった。 「仁志さんいつもそうじゃないですかぁ」 「何、文句あんの」 睨みつけたら佐原は目を伏せた。母親に叱られた子犬のようだ。 「いや別に良いですけど……」 結局のところ気の優しい佐原は、俺に対して強気に出たりはしないのだ。 「あ、小銭ねーや」 コピー機の前でわざとらしく呟くと、佐原が黙って500円玉を入れた。 「さっちゃんってば優しいのな」 「だって貸さなかったらまた意地悪されるし」 意地悪? 小学生じゃあるまいしそんなことするわけがない。何をくだらないことを言っているのか。 「俺がいつ意地悪したよ」 「先週、ATMで金降ろしてくるって言って雀荘に置き去りにされました」 「時間外だったんだから仕方ねーだろ」 「一昨日の飲み会の時に毛燃やされました」 「盛り上がったから良いじゃねーか」 「昨日は眼鏡が神棚の上に置いてありました」 「眼鏡かけて寝るお前が悪いんだ」 コピーを取りながらそんな軽口を叩いていたら、佐原は最後に「仁志さんってSですよね」と呟いた。 確かに俺は彼の困った顔を見るのが好きだ。犬みたいで愛嬌があるし、馬鹿みたいに笑えてくる。 しかし俺は、もっと良い表情を知っている。 ――さっちゃんの妹がAV出てるってマジ? それは佐原と同じ高校出身の友人から聞いた噂を、本人に確かめた時のことだ。 彼の顔から血の気が引いたことから、すぐにそれが事実だということがわかった。 ――誰から聞いたんですか? ひどく切迫した様子の佐原は、まるで別人のようだった。 俺は自分の行動のまずさに気付いてはいたが、どう振舞えばいいのかわからず、いつもの調子で続けてしまった。 ――そいつ、結構抜けるって言ってたぜ。 ああ違うんだ、こんな下劣なことを言いたいんじゃない。 おまえに似た顔の女が喘いでるってだけでなんだか興奮しちまって悔しかったんだ、 何もおまえの身内を中傷したいわけじゃない、悪かった佐原、俺が悪かった……。 頭の中で駆け巡る弁明を知るわけもない佐原は、俺の襟元を両手で掴み、そのまま体ごと壁に叩き付けた。 背中を強く打たれ、息が止まった。 少し遅れて咳が出たが、首を押さえられているため息を深く吸うことはできなかった。 ――誰に聞いたかって言ってんだよ。 佐原の顔が、すぐ近くに迫っていた。 焦点を合わせるために目を細めると、佐原の眼鏡の奥の暗い瞳とかちあった。 瞬間、わけのわからない興奮が走った。 絶望、激昂、悲哀。それはあらゆる負の感情を表すような瞳だった。 ――教えたらどうすんだ、殺しにでも行くのかよ。 精一杯の虚勢を張ると、佐原は更に体を寄せ、俺の首を締め上げた。 ――誰だ? 密着した部分から、彼の鼓動が伝わってきた。 表情は冷たいのに心臓はこんなにも早く打っているのか、と思った。 ――俺はチクるような真似はしねえ。 声が掠れてしまったが、佐原にはちゃんと聞こえたようだった。 手を離すとすぐにこちらに背を向け、乱暴してすみません、とだけ言い残して去っていった。 俺は肩を大きく揺らして息を吸った。生理的な涙が滲んだ。 呼吸を整えてからトイレに向かい、異常なほど熱く硬くなっていたものを自分で処理した。 目をつぶるとまぶたの裏に佐原の暗い瞳が甦り、俺の体はまた熱くなるのだった。 その後、俺は友人にそのことを口外にしないよう頼むことにした。 佐原からは異常に腰の低い謝罪の電話とメールを何度も送りつけられた。 佐原の奢りで食事に行った際には、彼の妹についての話も聞いた。 当時付き合っていた男の上手いやり口に乗せられてしまったこと、 ひどく後悔して一時期は心療内科に通っていたこと、 現在は落ち着き、平穏な生活をやっと取り戻せたこと。 時折眼鏡の位置を直しながらぽつぽつと話す佐原には、あの時の恐ろしい程の鋭さは見えなかった。 俺はそのことに安堵したが、どこかで残念にも感じていた。 「さっちゃん、我慢しないでいいんだぜ」 ノートを佐原の胸に付き返しながら、俺は言った。 彼は意図を図りかねるように、ほんの少し首をかしげている。 「おまえにだって怒る権利はあるんだからよ」 佐原はノートを受け取り、バッグに仕舞い込んだ。 「仁志さんってアレ、好きな子苛めるタイプですか」 「全然ちげーよ。俺のことなんもわかってねーのな」 「はぁ、すいませんね」 馬鹿な佐原。俺はずっと待っているんだ。 おまえがいつか俺に我慢できなくなって、あの暗い瞳で睨みつけてくれる日を。 「おつり350円。マイセン買っていい?」 「……いい加減にしてくださいよ」 だから俺は、これからも佐原を挑発し続けるのだ。
SもMも内包している ---- 「では今日はここまで。試験はテキストと板書から出題するので、よく復習するように」 教授が言うと、教室にいる学生たちは一斉に帰り支度を始めた。 最後の時間帯の授業なので、後は家路に着くなり部活に出るなり、皆自由の身になるのだ。 俺は前の席にいる後輩に声をかけた。 「さっちゃん、この授業のノート取ってる?」 「まあ一応は」 振り返った佐原は、困ったように眉毛を寄せて、若干情けない表情をしている。 “一応”と口では言うが、根が真面目なこの後輩のノートはいつも要領よくまとめられていて、とても頭に入りやすい。 「コピーさして」 「えぇ、またですか?」 眼鏡を直しながらそう返されたので、時間ないから早く貸せよ、と背中を小突いてやった。 「仁志さんいつもそうじゃないですかぁ」 「何、文句あんの」 睨みつけたら佐原は目を伏せた。母親に叱られた子犬のようだ。 「いや別に良いですけど……」 結局のところ気の優しい佐原は、俺に対して強気に出たりはしないのだ。 「あ、小銭ねーや」 コピー機の前でわざとらしく呟くと、佐原が黙って500円玉を入れた。 「さっちゃんってば優しいのな」 「だって貸さなかったらまた意地悪されるし」 意地悪? 小学生じゃあるまいしそんなことするわけがない。何をくだらないことを言っているのか。 「俺がいつ意地悪したよ」 「先週、ATMで金降ろしてくるって言って雀荘に置き去りにされました」 「時間外だったんだから仕方ねーだろ」 「一昨日の飲み会の時に毛燃やされました」 「盛り上がったから良いじゃねーか」 「昨日は眼鏡が神棚の上に置いてありました」 「眼鏡かけて寝るお前が悪いんだ」 コピーを取りながらそんな軽口を叩いていたら、佐原は最後に「仁志さんってSですよね」と呟いた。 確かに俺は彼の困った顔を見るのが好きだ。犬みたいで愛嬌があるし、馬鹿みたいに笑えてくる。 しかし俺は、もっと良い表情を知っている。 ――さっちゃんの妹がAV出てるってマジ? それは佐原と同じ高校出身の友人から聞いた噂を、本人に確かめた時のことだ。 彼の顔から血の気が引いたことから、すぐにそれが事実だということがわかった。 ――誰から聞いたんですか? ひどく切迫した様子の佐原は、まるで別人のようだった。 俺は自分の行動のまずさに気付いてはいたが、どう振舞えばいいのかわからず、いつもの調子で続けてしまった。 ――そいつ、結構抜けるって言ってたぜ。 ああ違うんだ、こんな下劣なことを言いたいんじゃない。 おまえに似た顔の女が喘いでるってだけでなんだか興奮しちまって悔しかったんだ、 何もおまえの身内を中傷したいわけじゃない、悪かった佐原、俺が悪かった……。 頭の中で駆け巡る弁明を知るわけもない佐原は、俺の襟元を両手で掴み、そのまま体ごと壁に叩き付けた。 背中を強く打たれ、息が止まった。 少し遅れて咳が出たが、首を押さえられているため息を深く吸うことはできなかった。 ――誰に聞いたかって言ってんだよ。 佐原の顔が、すぐ近くに迫っていた。 焦点を合わせるために目を細めると、佐原の眼鏡の奥の暗い瞳とかちあった。 瞬間、わけのわからない興奮が走った。 絶望、激昂、悲哀。それはあらゆる負の感情を表すような瞳だった。 ――教えたらどうすんだ、殺しにでも行くのかよ。 精一杯の虚勢を張ると、佐原は更に体を寄せ、俺の首を締め上げた。 ――誰だ? 密着した部分から、彼の鼓動が伝わってきた。 表情は冷たいのに心臓はこんなにも早く打っているのか、と思った。 ――俺はチクるような真似はしねえ。 声が掠れてしまったが、佐原にはちゃんと聞こえたようだった。 手を離すとすぐにこちらに背を向け、乱暴してすみません、とだけ言い残して去っていった。 俺は肩を大きく揺らして息を吸った。生理的な涙が滲んだ。 呼吸を整えてからトイレに向かい、異常なほど熱く硬くなっていたものを自分で処理した。 目をつぶるとまぶたの裏に佐原の暗い瞳が甦り、俺の体はまた熱くなるのだった。 その後、俺は友人にそのことを口外にしないよう頼むことにした。 佐原からは異常に腰の低い謝罪の電話とメールを何度も送りつけられた。 佐原の奢りで食事に行った際には、彼の妹についての話も聞いた。 当時付き合っていた男の上手いやり口に乗せられてしまったこと、 ひどく後悔して一時期は心療内科に通っていたこと、 現在は落ち着き、平穏な生活をやっと取り戻せたこと。 時折眼鏡の位置を直しながらぽつぽつと話す佐原には、あの時の恐ろしい程の鋭さは見えなかった。 俺はそのことに安堵したが、どこかで残念にも感じていた。 「さっちゃん、我慢しないでいいんだぜ」 ノートを佐原の胸に付き返しながら、俺は言った。 彼は意図を図りかねるように、ほんの少し首をかしげている。 「おまえにだって怒る権利はあるんだからよ」 佐原はノートを受け取り、バッグに仕舞い込んだ。 「仁志さんってアレ、好きな子苛めるタイプですか」 「全然ちげーよ。俺のことなんもわかってねーのな」 「はぁ、すいませんね」 馬鹿な佐原。俺はずっと待っているんだ。 おまえがいつか俺に我慢できなくなって、あの暗い瞳で睨みつけてくれる日を。 「おつり350円。マイセン買っていい?」 「……いい加減にしてくださいよ」 だから俺は、これからも佐原を挑発し続けるのだ。

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