「15-039」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

15-039」(2009/03/29 (日) 14:55:41) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

雅 ---- 夕暮れ時の平等院は、黄金色の西日の中に、黒々とした影となって建っていた。 俺たち二人の前に広がる阿字池を、鴨の親子が泳いでいく。 サディクが眩しそうに目を細めて、帽子のひさしを深く引いた。 「ミヤビだ……」 そう呟く彼の横顔には夕日が差し、彫りの深い顔立ちが強調されていた。 サディクは中東の国からやってきた、俺の同期生だ。 言語学を専門にしていて、アラビア語、英語、フランス語、日本語を話す。 出会ったばかりの頃は彼の日本語がまだ初級レベルだったため、よく英語でコミュニケーションを取っていた。 しかしもともと勤勉な性格の彼は、1年後には古典文学にも手を出すようになった。 明治・大正の近代小説から遡り、江戸時代の戯作、竹取物語に源氏物語、果ては万葉集や古事記まで。 国文学科に在籍している俺は、彼のために現代語訳をしたり、文法の解説をしたりと、 自分の知識をフルに活用して世話を焼いてやった。 代わりにサディクからは、あのアラビアン・ナイトについて教えてもらった。 1001夜に渡って語られるこの物語を、アラブの血を引くサディクが語る。 なんて贅沢なんだろうと思い、胸が弾んだ。 そうやって俺らは互いに異国の文学を学びあい、それぞれの文化に触れていった。 ある日彼は日本文学史の年表を広げながら、ヘイアン時代が一番好きだと言った。 「マクラノ草子はとてもユニークなエッセイだし、  コンジャク物語の背景にはアラビアン・ナイトに通じるものを感じるね。  ゲンジ物語やイセ物語は、なんだかもう全てが美しいよ。実にミヤビな文学だ。」 彼は年表に書かれている作品名を指し、人差し指で線を引いた。 もう常用漢字は大体読めるらしい。語学センスがあるのだろう。 「雅か、今はあまり使わない言葉だ。サディクの語彙は本当に幅広いな」 俺が言うと、サディクは柔らかく微笑んだ。 「だってマサの漢字だろう」 マサカズのマサはミヤビ、カズは数字の1。 初めて会った時に、俺は自分の名をそう説明したのだった。 「だから“ミヤビ”は、僕が日本に来て一番に覚えたカンジなんだよ」 「ああ、それなら俺も同じさ。初めて知ったアラビア語だ、“サディク”」 もっとも今は、友達――サディク――以上の関係になってしまったのだけれど。 そして俺たちは、平安文学の世界を求めて京都へやって来た。 二人きりの卒業旅行だ。一週間後にサディクは母国へ帰る。 出発前に話し合って、感傷的にならずに最後まで楽しもうと決めた。 多くの寺院をめぐり、懐石料理を食べに行き、様々な話をした。 たわいない思い出話も、真剣な議論も、俺たちにとっては貴重な時間だった。 最後に平等院に行こう、と言い出したのはサディクだった。 美しい庭園や貴重な文化財を見ることができると思い、すぐに賛成したのだ。 ああ、本当に終わるんだ。 サディクの横顔を見た瞬間、そう思った。 この旅もこの恋も今日で最後なのだという実感が、夕日と共に押し寄せてきた。 彼が帽子を深くかぶったのも、たぶん似た理由からだろう。 今さら何を泣くことがある。わかりきっていたことだ。 俺たちは素晴らしい時間を分かち合った、それで充分じゃないか。 頭ではわかっているのに、感情が追いつかない。 それほど俺らを包む風景は美しかったのだ。 「雅だな、サディク」 「うん、一生忘れないよ」 彼の鼻声が耳に響いた。 ああ、俺だって一生忘れられないだろう。 彼の縮れ毛や、乾いた肌、優しいまなざし。絶対に忘れやしない。 「ありがとう、マサ」 「こちらこそ、サディク」 真っ赤に熟れて沈んでいく太陽を切り裂くように、一羽の鴨が飛んでいった。
雅 ---- 夕暮れ時の平等院は、黄金色の西日の中に、黒々とした影となって建っていた。 俺たち二人の前に広がる阿字池を、鴨の親子が泳いでいく。 サディクが眩しそうに目を細めて、帽子のひさしを深く引いた。 「ミヤビだ……」 そう呟く彼の横顔には夕日が差し、彫りの深い顔立ちが強調されていた。 サディクは中東の国からやってきた、俺の同期生だ。 言語学を専門にしていて、アラビア語、英語、フランス語、日本語を話す。 出会ったばかりの頃は彼の日本語がまだ初級レベルだったため、よく英語でコミュニケーションを取っていた。 しかしもともと勤勉な性格の彼は、1年後には古典文学にも手を出すようになった。 明治・大正の近代小説から遡り、江戸時代の戯作、竹取物語に源氏物語、果ては万葉集や古事記まで。 国文学科に在籍している俺は、彼のために現代語訳をしたり、文法の解説をしたりと、 自分の知識をフルに活用して世話を焼いてやった。 代わりにサディクからは、あのアラビアン・ナイトについて教えてもらった。 1001夜に渡って語られるこの物語を、アラブの血を引くサディクが語る。 なんて贅沢なんだろうと思い、胸が弾んだ。 そうやって俺らは互いに異国の文学を学びあい、それぞれの文化に触れていった。 ある日彼は日本文学史の年表を広げながら、ヘイアン時代が一番好きだと言った。 「マクラノ草子はとてもユニークなエッセイだし、  コンジャク物語の背景にはアラビアン・ナイトに通じるものを感じるね。  ゲンジ物語やイセ物語は、なんだかもう全てが美しいよ。実にミヤビな文学だ。」 彼は年表に書かれている作品名を指し、人差し指で線を引いた。 もう常用漢字は大体読めるらしい。語学センスがあるのだろう。 「雅か、今はあまり使わない言葉だ。サディクの語彙は本当に幅広いな」 俺が言うと、サディクは柔らかく微笑んだ。 「だってマサの漢字だろう」 マサカズのマサはミヤビ、カズは数字の1。 初めて会った時に、俺は自分の名をそう説明したのだった。 「だから“ミヤビ”は、僕が日本に来て一番に覚えたカンジなんだよ」 「ああ、それなら俺も同じさ。初めて知ったアラビア語だ、“サディク”」 もっとも今は、友達――サディク――以上の関係になってしまったのだけれど。 そして俺たちは、平安文学の世界を求めて京都へやって来た。 二人きりの卒業旅行だ。一週間後にサディクは母国へ帰る。 出発前に話し合って、感傷的にならずに最後まで楽しもうと決めた。 多くの寺院をめぐり、懐石料理を食べに行き、様々な話をした。 たわいない思い出話も、真剣な議論も、俺たちにとっては貴重な時間だった。 最後に平等院に行こう、と言い出したのはサディクだった。 美しい庭園や貴重な文化財を見ることができると思い、すぐに賛成したのだ。 ああ、本当に終わるんだ。 サディクの横顔を見た瞬間、そう思った。 この旅もこの恋も今日で最後なのだという実感が、夕日と共に押し寄せてきた。 彼が帽子を深くかぶったのも、たぶん似た理由からだろう。 今さら何を泣くことがある。わかりきっていたことだ。 俺たちは素晴らしい時間を分かち合った、それで充分じゃないか。 頭ではわかっているのに、感情が追いつかない。 それほど俺らを包む風景は美しかったのだ。 「雅だな、サディク」 「うん、一生忘れないよ」 彼の鼻声が耳に響いた。 ああ、俺だって一生忘れられないだろう。 彼の縮れ毛や、乾いた肌、優しいまなざし。絶対に忘れやしない。 「ありがとう、マサ」 「こちらこそ、サディク」 真っ赤に熟れて沈んでいく太陽を切り裂くように、一羽の鴨が飛んでいった。 ---- [[宝石商>15-049]] ----

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: