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<p>共依存</p> <hr /><p>「おはようございます」<br /> おはよう、と返そうとした私は彼の顔を見て絶句した。<br /> 大学生には見えない、中学生のように小柄で、童顔で、小さな声で、大人しく真面目なバイトの彼は、その顔の半分を別人のように赤黒く腫らしていた。<br /> 「ど、どうしたのその顔は!?」<br /> うろたえた。この喫茶店に彼がバイトに入って、わずか三日。その三日で、私は彼に遠く離れて暮らす弟を重ね、礼儀正しい態度も含めて「いいバイトが来てくれた」と喜び、好感を抱いていたのだ。<br /> 「転んだんです」<br /> 彼は微笑もうとして、痛そうに顔をしかめた。それから私の表情を見て、もう一度「転んだんですよ」と言った。<br /> 明らかに嘘だった。<br /><br /> とても接客をしてもらえる外見ではなかったので、私は彼に皿洗いや掃除などの裏方仕事をしてもらうことにした。<br /> 彼は黙々と働いた。<br /> 幼い外見にその傷は痛々しく、誰がそんなことをしたのかと怒りすら覚えた。<br /><br /> 一週間後、彼はまた顔を腫らしてきた。それだけではなく、今度は手に包帯を巻いていた。<br /> 「ちょっと、転んだんです」<br /> 彼はまた嘘をついた。<br /> 店が終わった後、私は彼を引き止めた。<br /> コーヒーを出しながら、何か困ったことがあるなら力になると言ったが、彼は何もないと答えた。<br /><br /> 数日後、私は手を滑らせてカップを一つ割った。<br /> 彼は「大丈夫ですか?」「ケガしませんでしたか?」と心配そうに駆け寄り、「失礼しました」と客に言いながら破片を片付けてくれた。<br /> いい子だ。仕事の飲み込みは早いし、接客態度もいいし、大人しすぎるのがタマに傷というくらいいい子だ。<br /> 現金にも少し気分を良くした私は、その一時間後に何が起きるかなど想像もつかなかった。<br /><br /> 彼が休憩に入って数分後、裏口から何か物音がした。<br /> カラスがゴミでも漁っているのかと思い、ちょうど客もいなかったので、私は裏口のドアを開けた。<br /> 同時に彼が私の胸に飛び込んで来た。いや、そんな優しい表現では足りない。彼が私に激突した。<br /> 不意を打たれて私は尻餅をつき、事態を把握しようと顔を上げると、そこには上背のある男が立っていた。怒りの形相で私を見下ろしていた。<br /> 言葉を失う私を見下ろし、男は小さく舌打ちすると足早に去って行く。<br /> そこでようやく、私は腕の中の彼が顔を押さえていることに気が付いた。指の間から、とろとろと赤黒い液体が流れていた。私の血の気が引いた。<br /><br /> ***<br /><br /><br /> 「恋人なんです」<br /> 「ゲイだってこと、隠していてすみません」<br /> 「誤解しないでください、僕が悪いんです」<br /> 「彼、僕が店長と浮気していると疑って……」<br /> 「カッとなっただけなんです、いつもは優しいんです」<br /> 「繊細な人なんです。傷つけるようなことをした僕が悪いんです」<br /> 「僕のせいなんです。彼が来ているのに、疑われるような態度を取ったから」<br /> 「いい人なんです、本当は」<br /><br /> いい加減にしろ、と怒鳴りたかった。彼が鼻にティッシュを詰めて、顎の下まで鼻血で汚していなければ、きっとそうしていたに違いない。<br /> 今はできなかった。被害者を責めることだけはしたくなかった。<br /> そんな私の心を読んだかのように、彼はぽつりと呟いた。<br /><br /> 「……みんな、僕が被害者のように言う」<br /><br /><br /> ***<br /><br /><br /> 「面白い話をしてあげよう」<br /> 私は呆れて友人を見た。人が恋人から暴力を受ける――いわゆるDV被害者である哀れな青年について相談しているのに、いきなり何を言い出すのやら。<br /> 「あるところで飼われている犬は、子犬のころからラジカセに繋がれていた。そのせいで、成犬になってもラジカセが自分の力では動かないと信じていて、ラジカセ周辺から移動できないんだと」<br /> 「アタシそれ漫画で読んだわよ」<br /> つぶらな瞳と毛深い体が熊を思わせるママが、野太い声で笑った。私はまったく笑えなかった。<br /> 「……それで?」<br /> 「つまり固定観念を覆すことは難しい」<br /> 口を開けた私を押し留めるように、友人は手のひらをこちらに向けた。<br /> 「本人が幸せならいいじゃないか。ラジカセに繋がれてようが殴られてようが鼻血がブーだろうが。成人してるんだろ、その子」<br /> 「まだしてない!」<br /> 「パチンコもアダルトビデオも風俗も解禁だろ。恋愛に関して人がどうこう言う年齢じゃないと思うんだけどなぁ」<br /> 「お前もあの顔を見たらそんなこと言ってられなくなる!」<br /> 音を立ててカウンターにグラスを置くと、ママが「やぁねぇ」と顔をしかめた。<br /> 占いで生計を立てているから、奢るとまで言ってこの友人をバーに引きずり出したのに、思うような手ごたえがないことに私はいらだっていた。<br /> 「なんとかならないのか?」<br /> 「なんとかって?」<br /> 「だからほら、お前占い師だろ。『彼と付き合うと不幸なままですよ』とかアドバイスするとか」<br /> 「あほ」<br /> 二文字で片付けられた。<br /> 「ちなみに、固定観念うんぬんは、主にお前のことだからね」<br /> 「えっ?」<br /> 私のすっとんきょうな声を聞いて、友人は肩をすくめた。<br /> 「殴ったら加害者、殴られたら被害者……まぁそれは確かに。だけど本当にバイト君は被害者なのかな」<br /> 「顔の形が変わるほど殴られてるんだぞ?」<br /> 「オーケイ、ひとつアドバイスをしてあげよう」<br /> 友人は短くなった煙草をくわえて、ぷかりと空中に煙の輪を作った。<br /> 「『彼と別れなさい』と言ってみろ、おそらくバイト君は『彼は僕がいないとダメなんです』と言う。そこで『君のお父さんも人を殴っていたのか?』と突っ込めば、『はいそうです』と彼は言う」<br /> 突然の宣託に目を点にする私の前で、友人は目を伏せて呟いた。<br /> 「お前さんが思うほど、けなげでまっすぐでひたむきないい子じゃないよ、そのバイト君は」<br /><br /> ***<br /><br /><br /> 翌日、私は友人の言うとおりにした。<br /> 友人の予言は当たっていた。<br /> 私は電話でそのことを友人に報告した。<br /> 「だから言ったろ」<br /> 友人は眠そうな声でそう語った。<br /> 「彼氏はおそらく暴力依存。依存症だよ、わかりやすくいえば中毒。そしてバイト君はそれを無意識に煽ってる。彼は殴る男に依存してる。というか、それ以外に他人と関係を作れないのかもしれない」<br /> 「……なんとかならないのか」<br /> 「なんとかって?」<br /> 「だからその、カウンセリングとか……」<br /> 「あのね」<br /> ため息が聞こえた。あるいはあの日バーでそうしたように、煙を吐いただけかもしれない。<br /> 「救われたいと思っていない奴は、誰に何をしてもらっても救われない」<br /> 電話を通して聞こえる友人の声は、やけにクリアで、脳に直接響くような感覚すらある。<br /> 「砂漠に水をまくような真似はやめろや。お前はね、健全で影響されやすい人間だよ。認知の歪みの中で生きている人間に触れちゃいけない」<br /> ――たとえ惚れてても。<br /> 私は思わず通話を切った。<br /><br /> 店は閉めている。昼前に彼を帰し、臨時休業にした。今は客の対応をする自信がない。<br /> 冷蔵庫の低いうなりと、換気扇の回る音だけが店に響いている。<br /> ふと、気配を感じて振り返った。<br /> 彼がいた。<br /> 裏口に立って、じっと私を見ている。<br /> 「財布、忘れたんです」<br /> 声が出なかった。<br /> 彼はすたすたと店に入り、カウンターの下から財布を取り出してコートのポケットに入れた。<br /> 「僕の父親は立派な人間でした」<br /> 脈絡もなく語り出した彼の声が脳に響く。私はメドゥーサに睨まれた獲物のように、指一本動かせなくなっていた。<br /> 「父は医者で、たくさんの人の命を救う、とても立派な人でした。母も、姉も、僕も、よく殴られました。でもそれは、僕らが父の家族にふさわしくないことをしたときだけです」<br /> くすくすくす。<br /> 何の音かとしばらく考え、彼の抑えた笑い声だと気が付いた。<br /> 「きっ……」<br /> 声が出た。今まさに裏口から出ようとしていた彼は振り返る。赤黒く腫れた目の上と、紫色になった口元が見えた。<br /> 「君は、彼を、君の思い出から解放してあげないのか」<br /> 彼はうなずいた。<br /> 「幸せなんです」<br /> 彼は微笑もうとして、痛そうに顔をしかめた。それから私の表情を見て、もう一度「幸せなんですよ」と言った。<br /> 嘘には聞こえなかった。<br /><br /><br /><br /> ***<br /><br /><br /> 彼は僕を逃がすまいとするかのように、僕に覆いかぶさって眠る。<br /> 彼はよく僕を殴る。<br /> 殴られると痛い。<br /> そこに幸せはない。<br /> だけど、僕がふいと家を空けると彼はひどく取り乱す。<br /> 帰った僕は責められ、殴られる。<br /> 僕が彼を傷つけた代償だ。<br /> 彼はかわいそうな人だ。<br /> 殴ることしか知らないかわいそうな人だ。<br /> いつかこのひ弱なちびが自分より強くなるんじゃないかと、自分が否定されるんじゃないかと、怯えながら暮らしているかわいそうな人だ。<br /> 店長にはそれがわからない。<br /> カウンセリングだってさ。おかしいねぇ。<br /> あの人も、まるで僕らが狂っているかのように扱うんだ。<br /> 僕らの間にあるものを、絆の深さを、彼は知らないからそう言うんだ。<br /><br /><br /> 彼は不定形な僕に立場と役割を与える。<br /> 彼は僕を支配している。<br /> 僕は弱者である彼に強者だという自信と満足を与える。<br /> 僕は彼を支配している。<br /><br /> 彼には僕が必要だ。<br /> 僕には彼が必要だ。<br /><br /> ぼくたちはしあわせだ。<br /> こんなしあわせなにんげんは、ちょっといない。<br /><br /><br /><br /><br /><br /> あはははは。<br /> あはははははは。 </p> <hr /><p>隠せなくなった気持ち</p> <hr /><p> </p>
<p>共依存</p> <hr /><p>「おはようございます」<br /> おはよう、と返そうとした私は彼の顔を見て絶句した。<br /> 大学生には見えない、中学生のように小柄で、童顔で、小さな声で、大人しく真面目なバイトの彼は、その顔の半分を別人のように赤黒く腫らしていた。<br /> 「ど、どうしたのその顔は!?」<br /> うろたえた。この喫茶店に彼がバイトに入って、わずか三日。その三日で、私は彼に遠く離れて暮らす弟を重ね、礼儀正しい態度も含めて「いいバイトが来てくれた」と喜び、好感を抱いていたのだ。<br /> 「転んだんです」<br /> 彼は微笑もうとして、痛そうに顔をしかめた。それから私の表情を見て、もう一度「転んだんですよ」と言った。<br /> 明らかに嘘だった。<br /><br /> とても接客をしてもらえる外見ではなかったので、私は彼に皿洗いや掃除などの裏方仕事をしてもらうことにした。<br /> 彼は黙々と働いた。<br /> 幼い外見にその傷は痛々しく、誰がそんなことをしたのかと怒りすら覚えた。<br /><br /> 一週間後、彼はまた顔を腫らしてきた。それだけではなく、今度は手に包帯を巻いていた。<br /> 「ちょっと、転んだんです」<br /> 彼はまた嘘をついた。<br /> 店が終わった後、私は彼を引き止めた。<br /> コーヒーを出しながら、何か困ったことがあるなら力になると言ったが、彼は何もないと答えた。<br /><br /> 数日後、私は手を滑らせてカップを一つ割った。<br /> 彼は「大丈夫ですか?」「ケガしませんでしたか?」と心配そうに駆け寄り、「失礼しました」と客に言いながら破片を片付けてくれた。<br /> いい子だ。仕事の飲み込みは早いし、接客態度もいいし、大人しすぎるのがタマに傷というくらいいい子だ。<br /> 現金にも少し気分を良くした私は、その一時間後に何が起きるかなど想像もつかなかった。<br /><br /> 彼が休憩に入って数分後、裏口から何か物音がした。<br /> カラスがゴミでも漁っているのかと思い、ちょうど客もいなかったので、私は裏口のドアを開けた。<br /> 同時に彼が私の胸に飛び込んで来た。いや、そんな優しい表現では足りない。彼が私に激突した。<br /> 不意を打たれて私は尻餅をつき、事態を把握しようと顔を上げると、そこには上背のある男が立っていた。怒りの形相で私を見下ろしていた。<br /> 言葉を失う私を見下ろし、男は小さく舌打ちすると足早に去って行く。<br /> そこでようやく、私は腕の中の彼が顔を押さえていることに気が付いた。指の間から、とろとろと赤黒い液体が流れていた。私の血の気が引いた。<br /><br /> ***<br /><br /><br /> 「恋人なんです」<br /> 「ゲイだってこと、隠していてすみません」<br /> 「誤解しないでください、僕が悪いんです」<br /> 「彼、僕が店長と浮気していると疑って……」<br /> 「カッとなっただけなんです、いつもは優しいんです」<br /> 「繊細な人なんです。傷つけるようなことをした僕が悪いんです」<br /> 「僕のせいなんです。彼が来ているのに、疑われるような態度を取ったから」<br /> 「いい人なんです、本当は」<br /><br /> いい加減にしろ、と怒鳴りたかった。彼が鼻にティッシュを詰めて、顎の下まで鼻血で汚していなければ、きっとそうしていたに違いない。<br /> 今はできなかった。被害者を責めることだけはしたくなかった。<br /> そんな私の心を読んだかのように、彼はぽつりと呟いた。<br /><br /> 「……みんな、僕が被害者のように言う」<br /><br /><br /> ***<br /><br /><br /> 「面白い話をしてあげよう」<br /> 私は呆れて友人を見た。人が恋人から暴力を受ける――いわゆるDV被害者である哀れな青年について相談しているのに、いきなり何を言い出すのやら。<br /> 「あるところで飼われている犬は、子犬のころからラジカセに繋がれていた。そのせいで、成犬になってもラジカセが自分の力では動かないと信じていて、ラジカセ周辺から移動できないんだと」<br /> 「アタシそれ漫画で読んだわよ」<br /> つぶらな瞳と毛深い体が熊を思わせるママが、野太い声で笑った。私はまったく笑えなかった。<br /> 「……それで?」<br /> 「つまり固定観念を覆すことは難しい」<br /> 口を開けた私を押し留めるように、友人は手のひらをこちらに向けた。<br /> 「本人が幸せならいいじゃないか。ラジカセに繋がれてようが殴られてようが鼻血がブーだろうが。成人してるんだろ、その子」<br /> 「まだしてない!」<br /> 「パチンコもアダルトビデオも風俗も解禁だろ。恋愛に関して人がどうこう言う年齢じゃないと思うんだけどなぁ」<br /> 「お前もあの顔を見たらそんなこと言ってられなくなる!」<br /> 音を立ててカウンターにグラスを置くと、ママが「やぁねぇ」と顔をしかめた。<br /> 占いで生計を立てているから、奢るとまで言ってこの友人をバーに引きずり出したのに、思うような手ごたえがないことに私はいらだっていた。<br /> 「なんとかならないのか?」<br /> 「なんとかって?」<br /> 「だからほら、お前占い師だろ。『彼と付き合うと不幸なままですよ』とかアドバイスするとか」<br /> 「あほ」<br /> 二文字で片付けられた。<br /> 「ちなみに、固定観念うんぬんは、主にお前のことだからね」<br /> 「えっ?」<br /> 私のすっとんきょうな声を聞いて、友人は肩をすくめた。<br /> 「殴ったら加害者、殴られたら被害者……まぁそれは確かに。だけど本当にバイト君は被害者なのかな」<br /> 「顔の形が変わるほど殴られてるんだぞ?」<br /> 「オーケイ、ひとつアドバイスをしてあげよう」<br /> 友人は短くなった煙草をくわえて、ぷかりと空中に煙の輪を作った。<br /> 「『彼と別れなさい』と言ってみろ、おそらくバイト君は『彼は僕がいないとダメなんです』と言う。そこで『君のお父さんも人を殴っていたのか?』と突っ込めば、『はいそうです』と彼は言う」<br /> 突然の宣託に目を点にする私の前で、友人は目を伏せて呟いた。<br /> 「お前さんが思うほど、けなげでまっすぐでひたむきないい子じゃないよ、そのバイト君は」<br /><br /> ***<br /><br /><br /> 翌日、私は友人の言うとおりにした。<br /> 友人の予言は当たっていた。<br /> 私は電話でそのことを友人に報告した。<br /> 「だから言ったろ」<br /> 友人は眠そうな声でそう語った。<br /> 「彼氏はおそらく暴力依存。依存症だよ、わかりやすくいえば中毒。そしてバイト君はそれを無意識に煽ってる。彼は殴る男に依存してる。というか、それ以外に他人と関係を作れないのかもしれない」<br /> 「……なんとかならないのか」<br /> 「なんとかって?」<br /> 「だからその、カウンセリングとか……」<br /> 「あのね」<br /> ため息が聞こえた。あるいはあの日バーでそうしたように、煙を吐いただけかもしれない。<br /> 「救われたいと思っていない奴は、誰に何をしてもらっても救われない」<br /> 電話を通して聞こえる友人の声は、やけにクリアで、脳に直接響くような感覚すらある。<br /> 「砂漠に水をまくような真似はやめろや。お前はね、健全で影響されやすい人間だよ。認知の歪みの中で生きている人間に触れちゃいけない」<br /> ――たとえ惚れてても。<br /> 私は思わず通話を切った。<br /><br /> 店は閉めている。昼前に彼を帰し、臨時休業にした。今は客の対応をする自信がない。<br /> 冷蔵庫の低いうなりと、換気扇の回る音だけが店に響いている。<br /> ふと、気配を感じて振り返った。<br /> 彼がいた。<br /> 裏口に立って、じっと私を見ている。<br /> 「財布、忘れたんです」<br /> 声が出なかった。<br /> 彼はすたすたと店に入り、カウンターの下から財布を取り出してコートのポケットに入れた。<br /> 「僕の父親は立派な人間でした」<br /> 脈絡もなく語り出した彼の声が脳に響く。私はメドゥーサに睨まれた獲物のように、指一本動かせなくなっていた。<br /> 「父は医者で、たくさんの人の命を救う、とても立派な人でした。母も、姉も、僕も、よく殴られました。でもそれは、僕らが父の家族にふさわしくないことをしたときだけです」<br /> くすくすくす。<br /> 何の音かとしばらく考え、彼の抑えた笑い声だと気が付いた。<br /> 「きっ……」<br /> 声が出た。今まさに裏口から出ようとしていた彼は振り返る。赤黒く腫れた目の上と、紫色になった口元が見えた。<br /> 「君は、彼を、君の思い出から解放してあげないのか」<br /> 彼はうなずいた。<br /> 「幸せなんです」<br /> 彼は微笑もうとして、痛そうに顔をしかめた。それから私の表情を見て、もう一度「幸せなんですよ」と言った。<br /> 嘘には聞こえなかった。<br /><br /><br /><br /> ***<br /><br /><br /> 彼は僕を逃がすまいとするかのように、僕に覆いかぶさって眠る。<br /> 彼はよく僕を殴る。<br /> 殴られると痛い。<br /> そこに幸せはない。<br /> だけど、僕がふいと家を空けると彼はひどく取り乱す。<br /> 帰った僕は責められ、殴られる。<br /> 僕が彼を傷つけた代償だ。<br /> 彼はかわいそうな人だ。<br /> 殴ることしか知らないかわいそうな人だ。<br /> いつかこのひ弱なちびが自分より強くなるんじゃないかと、自分が否定されるんじゃないかと、怯えながら暮らしているかわいそうな人だ。<br /> 店長にはそれがわからない。<br /> カウンセリングだってさ。おかしいねぇ。<br /> あの人も、まるで僕らが狂っているかのように扱うんだ。<br /> 僕らの間にあるものを、絆の深さを、彼は知らないからそう言うんだ。<br /><br /><br /> 彼は不定形な僕に立場と役割を与える。<br /> 彼は僕を支配している。<br /> 僕は弱者である彼に強者だという自信と満足を与える。<br /> 僕は彼を支配している。<br /><br /> 彼には僕が必要だ。<br /> 僕には彼が必要だ。<br /><br /> ぼくたちはしあわせだ。<br /> こんなしあわせなにんげんは、ちょっといない。<br /><br /><br /><br /><br /><br /> あはははは。<br /> あはははははは。 </p> <hr /><p><a href="http://www19.atwiki.jp/910moe/pages/1228.html">隠せなくなった気持ち</a></p> <hr /><p> </p>

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