最後の約束 ---- 現八郎は譲られた席を固辞した。 立っているのは席がないのではなく、ただ座っていられなかっただけなのだから。 アナウンスが、戦前から永く残っている古い公園の名を告げる。 現八郎はしっかりとした足取りで、約束の地に向かった。 造園に多少の変わり様はあっても、その四阿(あずまや)は健在だった。 ここは変わらないのに、自分はあの頃とは足取りも体も心も様変わりしている。 目を閉じ、かの人を想う。 あの日の事を。 「柏木さん、僕は悔しいです」 眼鏡の奥で、切れ長の目が潤んでいた。 研究室の後輩である田辺は、徴兵検査で己が出兵出来ない身体と知った時よりも、 現八郎に赤紙が届いた事を嘆いている。 「僕なんかより柏木さんの方が、研究には必要な人なのに……これは国家の損失ですよ!」 「田辺、声が大きい……」 憲兵がいないか注意深く見回しながら、現八郎は声を顰めた。 「約束して下さい、必ず生きて帰って来ると。柏木さんがいないと駄目なんです」 夜の公園で肩を掴まれ言い募られると、まるで迫られているようだ。 真剣な眼差しをじっと見返した。 琥珀のような瞳の色を、すっとした鼻梁を、紅くてふっくらした唇を、記憶に焼き付けよう。 ただ無邪気に、自分のなし遂げつつある研究を尊敬している後輩。 自分が抱いている、邪な考えが暴かれる前に赤紙が来たのをどれだけ源八郎が安堵したか。 思い出を自ら汚すよりも、この人のために死にたい。 「柏木さん」 思い詰めたように、田辺の声は震えていた。 「どうか約束して下さい。……もう日本は無理かも知れない。こんな事を言うのは非国民です。 でも、それでも僕は……貴方に生きて帰って来て欲しい」 桜が吹雪のように舞っていた。 田辺のべっ甲色のフレームと頬の隙間に、花弁が1枚、黒子の様に張り付いている。 それをつまみ上げ、源八郎はこっそり胸ポケットへ花弁を入れた。 指先にほんの少し、田辺の頬の感触が残る。 「わかった。本所の家も君の処も残るかすら判らない状況だ。帰って来れたら、 大学の研究室でまた会おう。……そうだな、もし暫く会えないとしたら 50年後にここで会うのも良いかも知れん」 源八郎が軽口を叩くと、田辺は『約束ですよ』と柔らかく微笑んだ。 あれから50年が経った。 源八郎は敗戦後シベリアに抑留され、帰国した頃には研究室が無くなっていた。 田辺の家の跡地へ行くと、見知らぬビルが建っていた。 今日、ここで、逢えるだなんて思ってはいない。 自分はただ、汚さなかった思い出に浸りに来ただけだ。 突風に桜が舞い散る。 一瞬顰めた目を開くと、目の前に田辺が立っていた。 「柏木さん」 公園のゴミ箱を回収している女は、四阿のベンチで冷たくなっている老人を発見した。 その顔は微笑んでいたという。 ---- [[相貌失認症>21-169]] ----