【チベット証言集】 本土チベットへの電話インタビュー 1

Radio Free Asia

「今、治安部隊がやって来たようです。ありがとう。私たちがしていることを他の人々に伝え、世界に放送して下さい」

本土チベットからの多くの証言がある。Radio Free Asia は現地に電話をかけインタビューを行った。
当時の生々しいインタビュー記事は、下記のRadio Free Asia チベット語のサイトに掲載されている。

▼What witnesses are saying(Radio Free Asia)
http://www.rfa.org/tibetan/


その内容は、以下の『チベット式』に掲載された日本語訳で内容を知ることができる。

ブログ『チベット式』より 転載(ブログ主の承諾を得ている)
2008/05/10
【2008年チベット動乱】目撃者の証言集
http://tibet.cocolog-nifty.com/blog_tibet/2008/05/2008_1d54.html

(以下転載)


目撃者の証言

中国当局がチベットの都ラサを封鎖状態に置いている中、目撃者たちが各地に広がる抗議行動の報告を伝えている。ラジオ・フリー・アジア(Radio Free Asia)のチベット語サービスおよび中国語サービスに寄せられた目撃談を紹介する。(最終更新4月23日)

■以下は、3月18日(火曜日)以降、ラジオ・フリー・アジア(以下)RFAに寄せられた証言の元文である。報復を避けるための安全上の理由から、匿名にした部分もある。

■ラサは地獄です(4月23日)
「私たちは今、地獄にいます。日用品を買うため外出するには、2種類の身分証を持っていかねばなりません。ラサ市政府が発行した居留許可証と身分証明書です。5月末までは[ラサを]離れたり動き回ったりするなと告げられています。私たちはダライ・ラマを批判するよう強いられています。私たちのように商店や住宅を貸している者は『分離主義者とのつながりがあったり、所有地内で抗議運動の参加者が見つかった場合は、持ち主が逮捕され処罰される』と警告されました。ここチベットは地獄になってしまいました。」
(2008年4月23日、ラサからの電話)

■尼僧2人が拘束されました(4月23日)
「4月23日午後1時頃、2人の尼僧がカンゼの町の中心部で抗議行動を行ないました。32歳のプモ・ラガ、30歳のソナム・デチェン。カンゼ県のダカル尼僧院の尼僧です。彼女たちは、ダライ・ラマのチベット帰還を求め、『チベットは独立国だ』と主張する手書きのビラを配り始めました。中国の公安当局者がビラを見て、回収し始め、誰が配ったのかを探しました。」

「そして、2人の尼僧が、交差点でダライ・ラマ帰還とチベット人の自由を求めるスローガンを叫んでいるのが見つかりました。彼女たちはすぐに拘束され、警察車両で連れ去られました。連行される間も、叫び続けていました。2人は町にあるカンゼ拘置所に連行されましたが、同じ場所に捕われているのか、あるいは別の場所に移されるのかは、誰にもわかりません。ビラには、2人は自分自身で行動したのであり、ダカル尼僧院は抗議行動とは関係がないと記されていました。」
(2008年4月23日、カンゼからの電話)

■カンゼ公安局の職員
「尼僧など捕まっていません。私は知りません」
(カンゼ公安局の職員)

■チベット人共産党員からの電話(4月17日)
「本当に率直に言いたいのです。チベットに住むチベット人たちは、今回の抗議行動で多くの命を犠牲にしました。彼らがそうしたのには理由があります。その理由とは、自由です。彼らはすべてのチベット人のために行動しました。このことで私は深く傷ついています。私自身ひとりのチベット人です。しかし、中国共産党の党員であり、職務に携わっています。こうした犠牲を目にしたとき、本当に心を動かされました。私があなた方のラジオに電話した理由のひとつは、すべてのチベット人組織そしてカシャク[チベット亡命政府の内閣]に対し、チベット問題を解決する道を見出してくれるよう訴えるためです。チベットの外にいるすべてのチベット人たちは一致団結していると聞いています。団結を続けるべきです。私たちは、国外に住むチベット人たちに希望を託しているのです。だから、すべてのチベット人組織とカシャクは、どう中国とつきあっていくのかを真剣に考えるべきです」

「昨年チベットの使節が中国と会談したと聞きました。その対話は実りないものだっとも聞いています。対話では具体的な成果は何も得られないでしょう。過去にも、チベット人は、17条協定を論議しましたが、具体的な成果はありませんでした。中国人との対話は、いかなる成果ももたらさないでしょう。中国人高官との過去の議論において、具体的な成果がもたらされたことなどないのです」

「今、チベットの状況は、哀れで、非常に緊迫しています。すべてのチベット人は、特に高齢者は、中国の統治下で不安と恐怖を感じています。チベット内外のチベット人が、チベットに自由をもたらすために協力すべきなのです」
(共産党員と名乗るチベッと人からの電話、4月17日)

■100人以上が殺されました(4月14日)
「殺された人の数を正確に示すのは非常に困難です。主な理由は、ジョカン寺周辺では多くの人々が殺され、そして、彼らの多くはカム地方やアムド地方からさまざまな理由でラサに来ていたからです。彼らのほとんどは、居住許可証を持ってません。ですから、証明できるものがないため、犠牲者の数を確かめる術がないのです。100人以上のチベット人が殺されました。多くの友人が、チベット人たちが殺されるのを見ました」

「初めは、負傷した多くのチベット人が中国の病院に運ばれ、そこで手当を受けました。そのうち、負傷したチベット人が病院に運ばれると、手当を受けるかわりに拘束されるようになりました。抗議行動の2日目には、ケガを負ったチベット人さえ、容疑者として拘束されました。だから、ケガをしたチベット人は、死を待つしかなかったのです」

「今、ラサのチベット人の状況は非常に緊迫しています。チベット人が中国人の雑貨屋の店主と値段をめぐって口論になると、店主は警察を呼び、チベット人は容疑者として拘束されます。居留許可証を持っていないチベット人も拘束されます。まともに歩けない老人や学生さえ取り調べられています。漢族中国人には居留許可証は必要ありません。彼らの話す中国語それ自体が、許可証なのです」

(チベットからの電話、4月14日)

■3月10日、ジョカン寺前で起こったこと
「3月10日、3人の僧侶が、トムシカン市場で商店を営むあるチベット人の支援を受けて平和的な抗議行動を始めました。彼らはチベット国旗を掲げて抗議していました。治安当局によると、彼らはセラ寺の僧侶とのことです。3人は捕まって殴られました。

同じ日、武装警察部隊がデプン寺に派遣されました。僧侶らがラサの町に向かっていたからです。警官隊が僧侶らを制止すると、僧侶らは「なぜ家に帰れないのか」と説明を求めました。口論になり、衝突が起こりました。

3月12日と13日、セラ寺の僧侶らが立ち上がり、抗議行動を起こしました。実は私は12日にセラ寺に行く予定でしたが、すべての車両はラサ中学の所で制止され、だれもそこから先へ行けませんでした。友人の中にも同じ所で制止された者がいます。それから、ガンデン寺の僧侶らも抗議行動を起こしたとを聞きました。ラサ市内から十分な警官隊を送ることができず、小規模な分遣隊をタクツェ県に送り、県政府の若手職員全員にガンデン寺に出動するよう命じました。中国人の兵士も一緒に派遣されました。」

「3月14日、私はジョカン寺(ツクラカン)に向かっていました。ラモチェ寺に通じる道路はすべて塞がれていました。ラモチェ寺に着くと、寺自体も警察の車両によって封鎖されていました。突然、ラモチェ寺の僧侶らが抗議の声を上げながら駆け出してきました。彼らは警察車両を1台か2台引っくり返すと、寺の中に駆け戻っていきました。チベット人の若者たちが大勢集まって、その場ですべてを見ており、警官が彼らを威嚇すると、石を投げました。若者たちは警官に追いかけられて逃げていきました。」

「彼らがトムシカン市場の水場を走り過ぎたとき、その辺りにいた若いカムパ[訳注・東チベット出身の男性]たちがラモチェに向かって走り出しました。彼らも投石で警官に挑みました。その頃、大勢のカムパたちがツクラカンの前に集まっていました。私がそこに着いた時、彼らの何人かがジョカン寺に向かってカタを捧げていました。スカーフで顔を覆っている者もいました。ひとりのカムパがツクラカン前の車の上に立って叫びました。『お前たちがチベット人なら、起ち上がらねばならない!』。そして彼は下りて来て、ツクラカン前にあった警察車両3台に火を放ちました」

「続いて、彼らはチベット自治区人民政府に向かって行進しました。『ラサには中国人が多すぎる。インフレがチベット人を苦しめている』と叫びながら。その時、装甲兵員輸送車の音が聞こえ、人々が『軍隊が来た』と叫び始めました。武装警官がデモ参加者を追いかけ、逆にデモ参加者が警官を追いかける場面もありました。同じ日、ラサの別の地域でもチベット人たちが立ち上がり、抗議行動は拡大しました。ラサの中国当局は、これらの抗議行動はすべてダライ・ラマのせいだと非難しました」

「私自身は殺されたチベット人を1日のうちに6人見ました。ラサのアニ・ツァングン寺には診療所があります。チベット人5〜6人がここで亡くなったそうです。見に行くと、遺体に灯明が捧げられていたそうです。知り合いも何人か殺されました。たとえば、ルプク出身のラクパ・ツェリンというチベット人で、観光客相手の運転手です。友人は『ハーラ、ハーラ』とニックネームで呼んでいました。彼は頭を撃たれて死にました。群衆の中にいた時、誰かが『撃たれた!』と叫んだのが聞こえました。彼が近づいて来たとき、ズボンにいくつも穴が空いているのが見えました。警察は標的に当たると弾ける特殊な弾を使ったのです。彼はやがて意識を失い、顔は土色になりました。私は近くにいた人たちに、足を布で縛るよう頼みました」

「彼にあげる水を取りに行った時、カムパが撃たれて血を流しているのを見ました。さらに、少年が亡くなったと聞きました。まだ16歳位です。抗議行動に参加さえしていなかったのです。殺されたラクパ・ツェリンも、入院している母親の見舞いに行った帰りに撃たれたのです。16歳ぐらいの女の子も撃たれました。全身が血に染まっていました。白かったのは手だけでした。お母さんは泣いていました。ひとり娘だったんです。チベット人たちが、彼女を慰めようと箱にお布施を入れて渡しましたが、彼女はそれを放り投げました。彼女はこう言いました。『娘は正義のために死んだのです。悔いはありません』」

「大勢のチベット人が捕まりました。私の宿の窓から、大勢が連れて行かれるのが見えました。もし灯りをつけて外を見たら、撃たれていたかもしれません。ライフルを構えた武装警察が大勢待機していたからです。だから、私は灯りを消してから、窓越しに見ていました。50〜60人の武装警察が家々に押し入り、チベット人を連れ去りました。ある夜、後ろ手に縛られたチベット人を見ました。彼は引きずられて、下水溝につまづいて倒れました。警官たちは彼を殴りました。そのとき中国語でこう言うのが聞こえました。『撃っちまえ!』『殺しちまえ!』。3月14日と15日、まるでお祭りの時の爆竹のように、銃声が聞こえていました。私たちは外出を許されませんでした。大勢の漢族やチベット人の女性たちがチベット服を着ているのを見ました。彼らはすべて漢族のスパイで、地域に潜り込んでいた者もいたそうです。」

「これはすべてダライ・ラマのせいだと中国当局は宣伝しています。チベット人として、やってもいないことで非難されるのを見ると、胸が痛みます。多くのチベッと人が彼を批判しているのも見ました。ダライ・ラマ13世時代の大臣クンペー・ラの夫人だったお婆さんが、大声でダライ・ラマを批判していました。彼らの多くが中国からそうするよう強要されているのでしょうが、口をきわめて猊下を罵っているのです。そんな言葉で猊下を批判するのを聞いて驚きました。一方、私の会った別のチベット人たちは、チベットのあちこちで同じような抗議行動が起こっていることをラジオで聞き、してやったりと思ったそうです。彼らは情報をお互いにやりとりして、チベットの他の地域で起こっていることを知っていました。」

「チベット人は本当に隅に追いやられています。ラサには中国人が多すぎます。1989年に来た時には、あちこちにチベット人の若者がたむろしていたものです。今や、どこも漢族だらけ。本当かどうかよくわかりませんが、リウ[訳注・ラサ駅周辺]の新興住宅地には1万人以上の漢族の移民がやって来るそうです。ペンポの新市街にもさらに1万人。現在のバルコル地区のチベット人街は、ラサの何カ所かの高層団地に分散させられます。これらのすべての計画は、オリンピック後に実施されることになっています。」

「私がまだラサにいた時、ラサ市政府が、何人かの容疑者リストを発表したそうです。その中のトップは、中国の車の上に立ってチベット人の決起を訴えたカムパでした。後に、彼は空港で捕まったと聞きました。取り調べが始まった時には生きていましたが、出て来たときには死んでいたそうです。2人目は手足を折られて出てきて、生きているのかどうか、誰も知りません」

「多くのチベット人が外国の報道陣に来てほしいと望んでいます。しかし、必要ないと考える人もいます。アメリカは抗議行動の模様を衛星から撮影することができたでしょうから。チベット人たちは、その言葉を世界に伝え、広めてほしいと外国人に強く望んでいます。ラサには多くの刑務所があります。どこも捕まったチベット人で一杯です。私の知り合いの運転手は、ある拘置所に行き、チベット人たちが大部屋に囚われているのを見ました。ほとんどは裸でした。トイレも水もなく、その部屋で排便するしかないのです。100人以上のチベット人が連れて行かれるのが、私の宿から見えました。ラル地区で5〜6台の軍のトラックを見た人もいます。そのトラックには、中国人兵士に護送されるチベット人たちが手を縛られて詰め込まれていました。1000人を超えるチベット人が捕まったと私は思います」
(英国在住のチベット人。ラサの抗議行動とそれに続く弾圧を目撃した)

■娘の元に父親の灰だけが返ってきました(4月5日)
「短い時間で約200人のチベット人が捕まりました。混乱の最中で、誰が生きていて、誰が死んだのか、誰が連れ去られたのかは、わかりません。頭にケガを負った中国人を何人か見ました。それから、私の姉の話では、ルプク地区で9人のチベット人の遺体を見たそうです。私自身は、アニ・ツァングン診療所で、チベット人の女性と男性1人ずつが亡くなって横たわっているのを見ました。ラサ市人民医院に行った時、3人のチベット人が運び込まれるのを見ました。ケガ人の一人は、カム地方ペルバル出身のテンジン・ノルブです。彼の姉が連れて来たため、身元がわかりました。彼は頭を撃たれ、自治区人民医院に運んだほうがいいと勧められました。彼は嘔吐していました。助からなかったと思います。まだ若い…おそらく21か22でしょう…お姉さんによると、セラ寺のふもとにある学校の学生だそうです。別の若者も頭を撃たれていました。出血がひどく、助かる見込みはほとんどありませんでした。もう1人の若者は尻を撃たれ、4カ所ほど銃創を負っていました。」

「これ[決起]は正しい行為だと思います。私は抗議行動に参加し、ラモチェ寺周辺で2時間ほど抗議行動をしたうちのひとりです。この抗議は、私たちの祖国における中国による抑圧への絶望の表われだと理解しています。中国当局による実質的な鎮圧・弾圧は3月14日の夜、始まりました。夜8時頃、ラサのチベット人たちは、中国軍がやって来ることを知りました。多くはその場を立ち去って帰宅しましたが、抗議行動を続けた者もいました。まさにその夜、大勢のチベット人が連れ去られ、中国の武装警察がチベット人たちに発砲するのを見ました。」

「この目で見ました。3月14日、15日、16日には銃声が聞こえました。ルプク地区で亡くなった一人が、ラクパ・ツェリンです。彼のことは知っていました。娘さんが一人残されました。トゥールン・デチェン出身で、運転手をしていました。金曜に亡くなり、翌週の月曜に葬儀が予定されていました。しかし、頭に銃創を負っていたため、当局は遺体を解剖のため持ち去りました。後に遺体ではなく灰が返ってきました。ほとんどの犠牲者の身元はわかりません。家族が生きているのか、死んでいるのか、捕まっているのか、知る術はありません。遺体は当局に持ち去られて処分されてしまいました。」

「ラサにいた時聞いた話では、捕まったチベット人は、情勢が不安定なダプチやトゥールンの刑務所には連行されなかったそうです。多くはグツァや鉄道駅に近いニェタンの拘置所に入れられました。ニェタンでは約200人のチベット人が拘置され、取り調べを受けました。中国のテレビは、ペンポ・ルンドゥプ県でも農民や僧侶、学生らが抗議行動を起こしたと伝えていました。番組では、彼らは政府当局に投降したと主張していました。しかし、何人かのペンポ出身の人と話したところ、投降したことを否定し、中国当局は嘘を言っていると言っていました。」
(オーストラリア在住のチベット人女性。当時ラサにいた。4月5日にRFAの座談会に参加)

■東チベット・チャムドの緊張(4月2日)
「チャムド県では『人民と当局はアムド地方やカム地方カンゼ地域出身のチベット人に警戒しなければならない』という地元政府当局の通達が出ていました。チャムド市内では特に事件はありませんでした。居住者の多くは政府職員です。しかし、町には大きな武装警察の部隊があります。4月2日、政府は職員と住民らに、カンゼとアムド出身のチベット人に警戒するよう告げました。政府の通達によると、当局は、これらの地域からチャムドに来るチベット人を拘束する権限を有するといいます。こうした規制のため、旅行や仕事、あるいは日雇い労働などのチベット人は大きな迷惑を被っています」
(2008年4月2日、チャムドのチベット人が、オーストラリア在住のRFAのレポーターに語った)

■東チベット・ゴンジョで爆発事件(4月2日)
「チベット自治区ゴンジョ県のある町の近くで爆発がありました。そこには県と地元政府の職員の住居になっていた建物があります。はっきりした日付や時間はわかりませんが、最近、その建物が爆発で大破しました。調べてみると、爆破装置が4つ見つかり、実際に爆発したのは2つでした。住人にケガはありませんでした。」
(2008年4月2日、チベット人がオーストラリア在住のRFAのレポーターに語った)

■東チベット・パシュの事件(4月2日)
「3月28日、チベット自治区チャムド地区パシュ県のニェラ寺のツェリン・ドルジェという僧侶が中国警察に拘束されました。彼はパシュの町の中心部に行き、宗教の自由とダライ・ラマの帰還を求めるポスターを貼りました。その地域には武装警察があるため、彼はすぐ連行されました。現地のチベット人たちは、彼は地元の刑務所に投獄されたと信じています。彼の釈放を求めるためニェラ寺の僧侶100人以上が町に出向く準備をしていましたが、僧院長や高僧に説得されて思いとどまりました。」
(2008年4月2日、チベット人が、RFAチベット語サービスに語った)

■東チベットの僧院に大規模な武装警察部隊(4月2日)
「カムの主立った僧院の近くに、大規模な中国の武装警察部隊が配置されています。ペユル寺には2,000人。トムタク寺に約500人。カトク寺のすぐ近くのホルポには約1,000人。武装警察は僧院に立ち入り、僧坊や高僧たちの住居を捜索しています。ダライ・ラマの写真を見つけると、警官はそれを押収し、所持していた僧侶を非難します。地元のチベット人住民は、夜9時以降は外出しないよう警告されています。その時間帯に見つかれば、3カ月拘留されます。また、武装警察が町を通って移動する際には、妨げてはならない、そして、もし妨害すれば、一切の容赦なく殺されると警告されました。ペユル寺の僧侶らは、中国国旗を寺の屋根に掲げるよう命令されましたが、応じませんでした。」

「当局は、ダライ・ラマ批判のキャンペーンを始め、[最近の騒乱における]『ダライ集団』の関与を示す宣伝フィルムを上映し、ラサでイスラム教寺院や漢族の商店・レストランを襲ったチベット人を非難しています。高僧らはダライ・ラマを批判するよう強要され、自由に移動することが許されません」
(2008年4月2日、カム地方のチベット人がRFAチベット語サービスに語った)

■何も言えません(4月2日)
「まさに渦中にいます。何と言っていいのかわかりません。私はチベット人ですが、政府の職員でもあります。個人的な意見を言うのは困難です。」
(2008年4月2日、サンチュ[甘粛省夏河県]のラプラン寺近くに住むチベット人公務員が、RFA中国語サービスに語った)

■テレビは信じません(4月2日)
「[中国政府に管制された]テレビの言うことは信じません。しかし、あなたと電話で話すことはできません。」
(2008年4月2日、四川省カンゼ州に住むチベット人女性がRFA中国語サービスに語った)

■成都のチベット人大学生(4月2日)
「ダライ・ラマという名に触れることさえタブーです」
(2008年4月2日、四川省成都のチベット人大学生が、RFA中国語サービスに語った)

■僧侶が殺された(3月31日)
「3月14日、彼らは軍隊によって殺されました」
(2008年3月31日、甘粛省のチョネに住むチベット人女性が、RFA中国語サービスに語った。現地での初期の抗議行動で僧侶が中国軍に殺害されたことについて)

■騒乱はまだ起こっています(3月30日)
「河北省武漢の部隊がチョネ周辺に配置されています。武装警察が、逃げたチベット人たちを逮捕しようとしています。散発的な騒乱はまだ起こっています。」
(2008年3月30日、甘粛省の男性が、RFA中国語サービスに語った)

■旅行者の立ち入りは禁止されています(3月30日)
「四川省のラモ寺[訳注/タクツァン・ラモ寺]近くにはまだ大勢の武装警察が駐留しています。ラモには、甘粛省側と四川省側に[省境をはさんで]1つずつ僧院があります。四川側のラモ寺の僧侶はまだ抗議行動を続けています。衝突は起きていませんが、旅行者の立ち入りは禁止されています」
(2008年3月30日、地元チベット人男性が、RFA中国語サービスに語った)

■自由を求めています(3月30日)
「私たちはまだ自由を求めています。」
(2008年3月30日、四川省ダンゴ県[炉霍県]のチベット人僧侶が、RFA中国語サービスに語った)

■ダライ・ラマ批判を求められました(3月30日)
「数日前に、さらに多くの部隊が到着しました。正確な数はわかりませんが、今回は武装警察だそうです。市内にも郊外にも配置されています。30〜40人が拘束されました。多くは地元の遊牧民です。自ら出頭した者もいますし、捕まった者もいます。数日前、パトロール中の兵士が遊牧民たちに教われました。私は、今回の騒乱についての自分の意見と、ダライ・ラマ批判を書くよう求められました。他の商人たちの多くも同じことを言われました。もちろん、書きたいように書くわけにはいきません」
(2008年3月30日、青海省チクディル県[久治県]住人が、RFA中国語サービスに語った)

■処罰されました(3月30日)
「私はあのインタビューを受けたことで処罰されました」
(2008年3月30日、四川省カンゼ州の政府職員が、RFA中国語サービスで語った。彼は以前、RFAに対して騒乱を認める発言をした)

■話さないことにしましょう(3月27日)
「私たちには状況はよくわかりません。そう出歩きません。それについては話さなないことにしましょう。お願いです。お願いします」
(2008年3月27日、ラサ近くに住むチベット人女性が、RFA中国語サービスに語った)

■ラサの中国人女性(3月27日)
「今は大丈夫なはずです。ほんの数日前までは、交差点ごとに兵士がいました。トラブルの起こっている地域もあれば、平穏な地域もあります。兵士たちは昨日引き上げました。…[僧院には]まだ兵士はいるにちがいありません」
(2008年3月27日、ラサで商店を営む漢族女性が、RFA中国語サービスで語った)

■チベット人を大勢捕まえました(3月27日)
「彼らはチベット人を大勢捕まえました。重大な犯罪に関わった者が逮捕されています。罪がそう重くない者は釈放されています。…[捕まった人たちは]県の私たちの側に車で次から次へと運ばれてきていました」
(2008年3月27日、甘粛省チョネ県[卓尼県]在住の漢族女性が、RFA中国語サービスで語った)

■彼らは僧侶に発砲し、1人を殺しました(3月26日)
「月曜日、チョクリ寺の僧侶とンゴコク寺の尼僧を含む約1,000人がダンゴ県[炉霍県]で抗議行動を行ないました。中国警察は僧侶を殺害しました。彼らは僧侶らに発砲し、1人を殺したのです。彼は『チベットに自由を!』と唱えていました。私たちは行進していました。警官隊が道を塞ぎ、撃ってきました。月曜の夜、僧侶30が捕まりました。」

「火曜には、さらにダンゴ寺の僧侶200人以上がやはりダンゴの町に出ました。私も加わりました。私たちは行進しながら『私たちは自由がほしい!』と唱えました。警官は100人くらいいました。しかし、衝突はありませんでした。今日は誰も町に出ていないと思います。なぜなら今日は外出を禁じられているからです。僧院の入り口には武装した警官が配置されています。」
(2008年3月26日、チベット人僧侶が、RFA中国語サービスで語った)

■世界に伝えて下さい(3月22日)
「今、私たちはツォロ[訳注/青海省海南州]で抗議行動を行なっています。私たちは、中国指導部がダライ・ラマ猊下との対話を始め、チベット問題を平和的に解決することを求めています。また、猊下のチベット訪問が許されるよう求めています。私たちの抗議行動は平和的であり、ツォロ州のセルロ寺の僧侶10〜15人によるものです。たった今、私たちは、町の役所がある中心部に向かって行進しています。そこから、県政府の役所へ向かう予定です。大勢の地元のチベット人、主に遊牧民たちが加わっています。」

「…セルロ寺から4〜5マイル行進してきましたが、中国の治安部隊が、町と県の中心部に向かうことを許さないのではないかと懸念しています。この抗議の行進はまた、ラサなどチベット各地で平和的な抗議行動を起こしたチベット人たちを応援する気持ちの表われです。今、治安部隊がやって来たようです。ありがとう。私たちがしていることを他の人々に伝え、世界に放送して下さい」
(2008年3月22日、抗議デモを行なっている最中の僧侶が、RFAチベット語サービスのインタビューに答えて)

■チベットの国旗を掲げました(3月22日)
「3月18日、私たち、アムド・ゴロク[青海省果洛州]のペユル・タルタン寺の僧侶は、地元の県政府の役所に向けて行進をしました。地元のチベット人も加わり、約300人になりました。そのとき、武装警察はいませんでした。ほんの40人ほどの地元の警官だけでした。私たちは、県政府の役所まで行進し、中国の国旗を引きずり下ろし、チベットの国旗を揚げました。地元の警察は特に邪魔しませんでした。彼らはただ遠くから見て、写真を撮っていました。それから私たちは地元の学校や病院に行進し、中国の国旗を下ろし、代わりにチベットの国旗を掲げました。私たちはまた拘置所に向かい、すべての囚人の釈放を当局に求めると、彼らはそれに応じました。私たちはすべての抗議行動を平和的に行ない、誰ひとり傷つけず、一切の損害をもたらしていません。それから午後になると、武装した治安部隊を満載したトラックが4台到着しました。彼らは、5人か6人、おそらくもっと大勢のチベット人を逮捕しました。」

「今、抗議行動に参加しなかった僧侶しか寺にはいません。残りは山中に身を潜めています。高僧らは罪人を引き渡すよう圧力をかけられています。[中国は]自首すれば酌量すると言っています。自首しなければ“深刻な事態”になるでしょう。僧院は今、治安部隊に包囲されています。私たちがしたこと、そして私たちどんな状況にあるのかを伝えて下さい。ありがとう」
(2008年3月22日、ペユル・タルタン寺の僧侶が、RFAチベット語サービスに語った)

■治安部隊が発砲し、2人を殺しました(3月21日)
「3月20日、中国の治安部隊がセルタ県[四川省色達県]キクの町に到着しました。約1,000人いました。彼らは、17日の抗議行動で町の役所の建物に掲げられたチベット国旗を引きずり下ろそうとしました。抗議行動の参加者たちが平和的に抵抗していると、治安部隊が発砲し、2人を殺しました。犠牲者の名はキャリとツェド。2人ともツェシュル村の出身です。イェシェ・ドルジェ、タプケなど8人は重傷を負い、セルタ県の病院に運ばれました。セルタでは、セルタ・セラ寺の僧侶らが率いる1,000人以上のチベット人が抗議の行進を始め、約30マイル進んだところで、その2人のチベット人が殺されたのです。彼らはチベット国旗とダライ・ラマの写真を掲げ、『ダライ・ラマ万歳!』『チベットに人権を』そして『チベット独立!』といったスローガンを叫んでいました。彼らはまたチベット独立を訴えるビラを配りました。治安部隊は“深刻な事態”になると彼らを脅しましたが、彼らは平和的なデモを続けることにしました。今のところ[それ以上の]発砲はありません」
(2008年3月21日、セルタ在住者が、RFAチベット語サービスのインタビューに答えて)

■外出したチベット人はみんな捕まりました(3月20日)
「ラサの兄弟の家にいます。でも、町に入ることはできません。治安部隊がすべてを封鎖してしまっていて…居留許可証を持っている者は動き回れますが、持っていない者は外出できません。15日と16日、外出したチベット人はみんな捕まりました。今も、中国の治安部隊による封鎖は続いています。彼らは治安要員が撮影した写真を持って、そこに写っているのは誰か、どこにいるのかを尋ねて回っています。最近、僧侶がひとり捕まったと聞きました。中国が妨害電波を出しているため、RFAとVOAのラジオ放送はラサでは聞けません」
(2008年3月20日、ラサ在住のアメリカ国籍のチベット人が、RFAチベット語サービスに語った)

■僧侶たちは再教育を拒否しました(3月20日)
「カムのガパ地域のセルカル寺の僧侶に対する再教育を実施するため、大規模な治安部隊が到着しました。しかし、すべての僧侶は参加を拒否し、かわりに宗教の自由と人権を求めるスローガンを叫びました。約500人の僧侶がいます。治安部隊は寺を去る前に、明日戻って来て捕まえてやると脅したそうです。その後どうなったかはわかりません」
(2008年3月20日、ンガバ[四川省ンガバ]のチベット人目撃者)

■治安部隊が学生たちを包囲しました(3月20日)
「青海省では、3月19日、玉樹州出身のチベット人学生が抗議行動を起こしました。約800人の学生のうち、約400人が参加しました。彼らは中国国旗を下ろし、火をつけました。治安部隊が到着し、学生たちを包囲しました。治安部隊は、その地域で騒乱を起こす者には発砲せよと命じられたことを告げました。学生たちは他のチベット人たちとの接触を禁じられています」
(2008年3月20日、青海省より)

■2,000人がデモに参加しています(3月20日)
「アムドのツェコ[青海省沢庫県]では、3月20日も僧侶らが平和的な抗議行動を続けています。僧侶を含む2,000人のチベット人が参加しています。参加者が求めているのは、中国の指導部がダライ・ラマとの平和的な対話を開始し、チベット問題を平和的に解決することです。彼らはまた、すべてのチベット地域での実質的な自治を求めています。そして、ダライ・ラマがアムドを訪問することを許すよう求めています。今ここには治安部隊はいませんが、こちらに向かっていると聞きました。中の世界には自由はありません。私たちは今、県政府の役所の前で抗議行動をしています。約2,000人います。私たちは平和的に抗議しています」
(3月20日、アムドのデモの最中、参加者がRFAチベット語サービスに語った)

■オリンピックが終わるまで拘束される(3月20日)
「今日もまた中国の警察が、アムド・ンガバ[四川省アバ]地域のチベット人の家々を1軒1軒捜索しています。ダライ・ラマの写真や、政治的に問題のある物や文書はすべて押収されます。自宅から見つかった場合は逮捕されます。オリンピックが終わるまで拘束されると言われています。オリンピックが終わったら、裁判が始まるのだそうです」
(3月20日、ンガバのチベット人の証言)

■まだ外出禁止令(3月20日)
「町に出入りする時は、身分証明書を提示しなければなりません。まだ外出禁止令が出ていて、通りはほとんど放ったらかしの状態です。商店は仕事になりません。みんな家にいます」
(3月20日、ラサ在住のチベット人がRFA中国語サービスで語った)

■何も話せません(3月20日)
「言ってはならないことを一言でも口にすれば捕まってしまいます。怖いです。何も話せません」
(3月20日、ラサ在住のチベット人女性がRFA中国語サービスで語った)

■携帯電話はつながりません(3月20日)
「大勢が捕まりました。私は家にいて、友だちと連絡もとれません。私の携帯電話はつながりません。私に電話すると、電源が切れているというメッセージが流れます。実際は一度も切ったことはないのですが」
(3月20日、ラサ在住のチベット人男性がRFA中国語サービスで語った)

■ラサの刑務所は満杯です(3月20日)
「ラサでは、抗議行動に参加しようがしまいが、身分証明書を持っていないチベット人は捕まってしまいます。身分証を持っていない遊牧民も多いんです。ラサの刑務所は満杯です」
(3月20日、チベット亡命政府スポークスマンが、RFA中国語サービスで語った)

■バイク30台以上が大破しました
「昨夜、60台の警察のトラックがボラ地域にやってきました。7台ないし10台はすでにこの地域に配置されていました。今朝、60台すべて去って行きました。近くの僧院の僧侶たちは外出を許されず、外にいる僧侶は帰ることを禁じられました。3月18日、さまざまな地域のチベット人たちが馬で町の中心部にやって来ました。バイクで来た若者も大勢いました。バイクは警察のトラックに引かれ、30台以上が大破しました。今のところ、この地域での逮捕や発砲の知らせはありません」
(ボラ地域の人と話したインドのデプン・ゴマン寺のクンチョク・ギャツォ)

■今朝だけでも、市場で3人捕まるのを見ました
「ラサでは、大勢のチベット人が捕まりました。今朝だけでも、タリン市場で3人が捕まるのを見ました。ひどい暴行を受け、手錠をかけて連れて行かれました。中国とコンポ地方からさらに治安部隊が送り込まれたそうです。町中に入るチベット人は検問で調べられます。男性や若者は全身くまなく調べられますが、女性には少し緩いようです。体だけでなく、手荷物を調べられます。軍隊で一杯になったラサの町を見るのは恐ろしいです。中国の装甲車のナンバープレートは、どの部隊かを特定されないよう覆われています」
(ラサ在住のチベット人の証言)

■昨日も1人殺され、9人が連行されました
カンゼの町に平和はありません。昨日も1人殺され、9人が殴られて連行されました。連行された人の家族には、生きて会える望みはありません。ただ遺体を待つのみなのです。しかし、家族にとって悔いはありません。彼らは正義のために命を落としたのだと信じているからです。最近さらに7人チベット人が逮捕されました。ギュルメ、ペンパ、ドルジェ、ジャムヤン、クンガ、チメ・ゴンポ、そして、ナムサ・ワンデン。カンゼの町の中心部では、チベット人は自由に移動できません。そこに行けるのは人民武装警察だけです。地元の県政府幹部には何の権限もなく、武装警察が管制を敷いています。40台の新品の車両と2機の航空機、そして1万人近いと思われる武装警官が駐留していると地元の人々は見ています。
(カンゼのチベット人の証言)

■学生たちは帰郷を許されません
「ンガワ[アバ]に両親がいるマルカム普通学院のチベット人学生たちは、噂を聞いて帰郷したいと希望しました。学校当局は、学校にいたほうが安全だと言って制止しました。衝突が起きたのは何日だったのか、定かではありません。しかし、キャンパスは事実上の戒厳状態に置かれ、3月15日以来、学生たちは帰郷を許されていません。学校にいる限り、安全は保証されています。学校側は、人々が騒乱を起こすことを憂慮しています」
(四川省マルカム県のマルカム普通学院の漢族教師が、RFA中国語サービスで語った)

■家族の安否が心配です
「この状況について話すのは適切ではありません。家族には電話もつながりません。呼び出し続けてるんですが、話し中の音になって、つながらないんです。家族の安否が本当に心配です。現地で何が起こっているのか、まったくわかりません。通信手段が機能していないんです」
(四川省成都の西南民族大学のチベット人学生が、RFA中国語サービスで語った)

■話すのはまずいんです
「話すのはまずいんです。携帯電話は盗聴されています。校内で抗議行動があるかどうかは言えません。まずいんです…」
(上海在住のチベット人学生が、RFA中国語サービスのインタビューに答えて)

■四川省成都でも検問
「成都のチベット自治区事務所へつながるすべての大通りには、車両の中で待機する機動隊と武装警察が配置されています。私は近所を歩きましたが、ミニバンや普通車など、治安関係の表示を付けた車両は60台を下りません。チベット自治区事務所方向へ向かう車はすべて検問を受けます。トランクが調べられ、ドライバーは車から下りて、身分証を提示しなければなりません」
(成都在住の漢族活動家Huang Xiaominが、RFA中国語サービスのインタビューに答えて)

■私たちの政策に不適切なところがあったのだと考えるのが自然です
「ラサで抗議行動を起こした僧侶たちがきわめて乱暴に扱われ、戦車まで投入されているのを、“FreeGate”を使ってインターネットで見ることができました。やりすぎだと思います。死者が出たと聞きました。私は大勢のチベット人と仕事をしたことがあります。多くの少数民族を知っています。特にチベット人は好きです。ひとつ例をあげましょう。料理や水が足りなくなったとき、チベット人の家を訪ねて行けば、だれもが面倒をみてくれます。食べ物や泊まるところを提供してくれます。私だけでなく、友人5〜6人がそういった体験をしました。彼らが本当に騒乱を起こそうとしたというなら、私たちの政策に不適切なところがあったのだと考えるのが自然です。チベット人の友人たちにお願いします。漢族全員を嫌いにならないでほしいんです。目に映るのは本当に悲しい風景です。戦車ですよ…戦車なんて、ひどいものです…」
(北京在住の中国人が、RFA中国語サービスのリスナー参加番組に電話して語った)




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最終更新:2009年02月16日 00:52