「……ん。 ここ、水溜りあるぜ。 気をつけろよ」

雨上がりの薔薇庭園。
使用人達によって手入れされている薔薇達はさきほどの雨露をその身に纏い、陽の光を伴いながらキラキラと反射していた。
その光景はなんともいえず煌びやかで――まるで俺達の関係を祝福してくれているようだ。

「よっと! ……ほら、掴まれよ」

俺は自分がまずその地面にある大きな水溜りを飛び越えてやると、後ろからやってくるその子にスっと手を差し伸べてやる。
彼女と俺じゃあ歩幅が違いすぎるからな。 ゆっくり歩いてやらないとこいつはすぐに遅れてしまうのさ。
おまけにそんな畏まった白いブーツなんて履いてたら、きっとこんな大きな水溜りを飛び越えるのも一苦労だろう。

「す、すみません。 んっと……えいッ!」

そうして差し出された俺の手をギュっと握り返すと、彼女は可愛いかけ声をあげながら水溜りをピョンと飛び越える。
着ているドレスを水で濡らすこともなく、無事こちら側へ。 だが着地までは上手くいかなかったらしい。
あやうくバランスを崩し横に倒れそうになる彼女を見ると、俺はすぐさま繋いでいた手をグイっと引っ張ってやる。

「おっと! ……だいじょうぶか? せっかくの綺麗なドレスなんだ、汚しちゃもったいないぜ。 ……ヱリカ」

「あ、ありがとうございます。 戦人さん……」

そうして俺の腕の中でお礼を言うその子――古戸ヱリカ。
とっさのことだったので結果として抱きしめる形になっちまったが、まあいいか。 いまさら恥ずかしがる関係でもないしな。

……嘘だ。 ほんとは俺だってまだまだ恥ずかしい。 あれから一年経つわけだが、いまだに俺とこいつは恋人気分が抜けないな。

するとヱリカの方も同じ心情なのか、彼女はエヘヘと気恥ずかしそうに笑うと口からピョコンと舌を出した。

「ごめんなさい。 ひさしぶりの散歩だったんで、ついはしゃいじゃいました。 やっぱり雨上がりの地面は危険ですね。 
……というわけで戦人さん、このまま腕を組んだまま歩きましょう。 手を繋ぐだけじゃ危ないですしね?」

そう言ってヱリカは俺の腕にギュウゥゥと抱きついてくると、ニコニコとした笑みを浮かべながら前へと歩き出す。
どうやら最初からこれが狙いだったらしいな……。
俺が『倒れそうになったの、わざとだろう?』と聞くと、ヱリカは『ふふ、どうでしょうね?』と小悪魔な表情を浮かべる始末。
素直に腕が組みたいって言えばいいものを、わざわざ回りくどいやり方をするのがこいつだ……。

「あいかわらず素直じゃねえなぁ。 探偵だから遠まわしな行動が好き、とかか?」

「『元』探偵、です。 もう捜査をする必要もありませんから。 ……あなたの浮気調査以外は」

「い、いっひっひ。 そいつはご勘弁願いたいもんだ」

ヱリカのジロリという目線(もちろん冗談だろうが)に、俺はプイとそっぽを見る素振りを見せる。
どのみち俺が浮気なんてしないってわかってるくせに、ヱリカは時々こうして俺をからかうから困るぜ。
まあ、たしかに昔は男女問わず幅広く友人がいたにはいたが、この島じゃあそもそも他の女の子と出会うことすら難しいってのになぁ……。

「まぁ……にしても、いまだに信じられないぜ。 まさかあのヱリカと俺が、なぁ……?」

俺は自分の左手をお天道様にかざしながら、隣にいるヱリカに自分の薬指を見せ付ける。
元々キラキラと輝いているソレは太陽の光に反射し輝きを増していた。 まるで俺の手の中で赤く燃え上がっているようにも見える……。

「コレを見るたびに思うんだけどよ。 世の中ってのはほんとに何が起こるかわからないもんだぜ……いまだに信じられねぇ」

「……そうですか? 私は信じられますけど」

そうつぶやく俺に彼女はちょっと不機嫌そうに答える。
どうもヱリカは俺とは異なる感想を持っているようで、スっと人差し指を前に差し出すと――それを垂直に立てながらうやうやしく御高説を始める。

「事実は小説より奇なり、です。 創作された世界での不思議な出来事なんて、私達の世界の現実では少しも不思議なことではありません。 
私と戦人さんがこういった関係に至る経緯だって、もし文字に書き起こしたら単純明快、そのへんの有り触れた恋愛小説と同じストーリーなんですよ? いたって『有り得るお話』です」

「……台風で『偶然』海に投げ出され『偶然』とある島に流れ着いた少女が、これまた『偶然』六年ぶりにその島に訪れた男と出会い、その後『偶然』一緒に碑文を説いたのち、
最後には添い遂げるストーリーが、か? ちょいと『偶然』の回数が多すぎやしないか?」

「そんなことはありません。たかだか『四回』です。 それに碑文を説いたのは私達の努力と知恵ですよ? つまり『三回』に減りますね。 
確率論で言えば運命の神様がちょっとうっかり三回ほど微笑んでくれるだけでいいわけです。 私と戦人さんが結ばれるのは必然だったということ、お分かりいただけますか?」

「う~ん、そういうもんか? いまいち納得できねぇけどな……」

いまだにちょっと納得ができず唸ってしまう俺に、ヱリカはそうなんです!と指先をビシィっと突き出し真実を確定させてしまう。

……まあ、そういうもんか。 深くは考えないでおくことにする。

それに大切なのはそこに至る過程じゃないしな。
いま俺とヱリカがこうして一緒にいるっていう幸せが何よりも重要なんだってこと、俺だってよくわかってるんだぜ。
あの日、奇跡的にもヱリカを島へと導いてくれた神様には感謝しないといけないってこった……。


――俺が六年ぶりに島へと帰って来たあの日。 ヱリカはこの六軒島にほんとに偶然流れ着いてきたのだ。

嵐のような台風がやってきていた。 
なんでも近海に来ていたボートから投げ出されてしまったらしいのだが、それこそ奇跡的な確立で生きたまま島へと流れ着いた彼女はほんとに運が良かったのだろう。
そしてヱリカはその後、図らずも右代宮家の客人として迎えられていく……。 
今も着ている綺麗なドレスはその時のもので、なんでも朱志香のお下がりをそのままもらったらしい。
あの時はあの朱志香がこんなドレスを持っていたのかと心底驚いたもんだ。

そしてその夜、親達による親族会議が始まる。 招かざる客人が来ようとそれは必然のようだった。
もっとも会議なんて単語を付けられてはいるが、その内容はとてもじゃないが『儀を会する』とはほど遠い醜い内容だったのを今でも憶えてる。
……まあ、悪いとは思ったさ。
けど親父達の様子がどこかおかしいことに気づいた俺は、その親族会議ってやつを廊下で盗み見てたってわけだ。

そしてそこには――普段は優しい叔父、叔母達が互いを罵り、罵倒し、蔑む光景が広がっていた。
おまけに実の父親が自らの責で金に困り、それを兄への脅迫で埋めようとしているというくそったれな現実のおまけ付きだ……。

なるほど、これでは俺達子供を追い出したがるはずさと思ったぜ。
あの時の奴らは親じゃない。 ただの欲の皮がつっぱった守銭奴に成り果てていたってことさ……。

そうしてあらかたクソ親達に嫌気が差すと俺は館を離れ、真夜中の薔薇庭園にまで足を運んでいく。
――そう、今ヱリカと一緒にいるこの場所だ。

そこで俺は一人ふて腐れていたんだ。 あんな光景見ちまったらとてもじゃないが平静でいられないからな。
すぐにゲストハウスに帰っちまってもよかったんだが、そしたらこの嫌な気持ちを譲治の兄貴や朱志香にぶつけちまうかもしれない。 ……あんなクソ親達を知るのは俺だけで充分だぜ。

そのへんの薔薇を片っ端から引っこ抜きたくなるのをどうにか抑えながら散歩していると――彼女に出会ったんだ。

――古戸ヱリカ。
腐った死体のような顔をしている俺に、何かあったんですか?――と声をかけてきてくれた時のことは今でも記憶の中に鮮明に焼きついてる。
まさに俺にとっての救いの女神。 ……はちょっと言いすぎか。

俺はヱリカに親族会議での出来事を話した。
関係ない人間にそんな大事なことを?と思うかもしれないが、関係ない人間だからこそ逆にすべてを話せたんだ。
……まあ、なんだ。 落ち込んでたから単に女の子に慰めてもらいたかったからってのもあったのかもしれない。 俺も親父の血を引いてるクソッタレってことだな。

そしてその望みどおり、彼女は俺を慰めてくれた。
何も言わず俺の顔を自分の胸に抱きしめると、泣いていいんですよ――と優しさの衣で包み込んでくれたんだ。
俺はおもわず涙が出ちまった。 こんな優しい子が世の中にいるのか、と。
……まあ、その時の俺の泣きっぷりは割愛。 悪いが語るのは勘弁してくれ。

そうしてしばらくヱリカの胸元で甘えると、俺はおもわず冗談交じりにこうつぶやいたんだ。
いま思えばその言葉がすべての始まり――俺とヱリカがこういった関係になるきっかけだったように思える。

「こんな時、ベアトリーチェの黄金がほんとにあればいいってのにな。 爺様の碑文、いっちょ説いてみるか? なんてな……へへ」

――ようは、金。 ようは金なのだ。
親達があんなにも互いに互いを罵倒するのは、すべては金に困っているから。 
親達を金の亡者だなんて言っちまったが、俺だってそこまでガキじゃない。 金の大切さはよくわかってるつもりさ。
と、なると爺様が書き起こしたあの碑文――黄金の隠し場所が書いてあるとかいう碑文を説こうって話になるのは当然だよな?

もっともあの時はほんとにベアトリーチェの黄金があるなんざ信じちゃいなかったから、半分冗談交じりでつぶやいたことだったんだが……。

「……碑文、説きます? 一緒に 」

俺のつぶやきを聞いたヱリカは、そう、俺の耳元でささやいた。
それはまるですでに碑文の謎を解明していて、その解答を俺にだけそっと教えてくれているような――そんなニュアンスを含んでいるふうに聞こえた。

その後はもう、驚きと興奮の連続だったぜ。
ヱリカのアドバイスを受けながら俺は碑文の解読を始め、ものの三十分もしないで二百億の黄金に辿りついちまったんだからな。
最初にそれを見たときは俺もチビりそうになった。 なにせベアトリーチェの黄金があるなんざ、たんなる爺様と親達の妄言とばかり思ってたからな。

そして俺はその黄金の山を見て確信した。 これですべて解決した、と。

この黄金を親達に見せれば全ては解決。 親達の汚らしい借金も消え、惨たらしい罵りあいもやめてくれると心底嬉しがったもんだ。

……だが、ヱリカの話だと事はどうにもそれほど単純じゃないらしかった。
むしろヱリカは、この黄金の山を絶対に親達に見せてはいけないとキッパリと言い切ったのだ。

人間ってのは強欲だ。 一億手に入るだけだって願っても無い幸運だというのに、百億手に入る可能性が生じるとすぐさま一億ごときじゃ満足できなくなるってもんらしい。
ようはこんな黄金を親達に見せたらそれこそ地獄絵図。 蔵臼叔父さんへの恐喝の報酬が200億の黄金に変わるだけだというのだ。 根本的な解決には至らない、と。

じゃあどうすれば?と問う俺に、ヱリカは上手い作戦があると提案してきた。
どのみち碑文もほとんど彼女が説いたようなものだしな。 俺は彼女を信頼し、すべてまかせることにしたんだ。

これは後ほどの話だが、ヱリカはこの時よく自分のことを信じてくれましたね、なんて言ってたな。
もし自分が黄金を独り占めすることを考えてたらどうするんだ、なんてクスクス笑ってた。
思えばその時にはもう俺は、碑文をあっさりと説いてしまった彼女に尊敬に似た思いを抱いていたのかもしれないな……。

話を戻そう。
それからヱリカは一度屋敷に戻ると、何を思ったのか使用人からポラロイドカメラを借りてくる。
なんでも島にいるうみねこや景色を撮影するためのものだったらしいのだが、ヱリカはそれがあの時あの島になかったら俺とこうして添い遂げることはなかったと言っていた。
そしてそれを俺にポンと手渡すと、自分と黄金の山を一緒に撮ってくれ、などとお願いしてきたのだ。
今日、この島に初めて来た無関係な自分が一緒に映るからこそ――証拠として意味があるのだと。

親達に黄金は見せてはいけない。 だがそれは直接見せてはいけないという意味だ。
これだけの黄金の現物を見せ付けられたら、人は変わってしまうから。 人ではないものに。

ようは黄金が確かにあるという証拠さえ確保しつつ、まずはその証拠だけを親達に見せ付ける。
そして台風が過ぎ去った後、その時初めて黄金の隠し場所を教える――というものだ。 それがヱリカの提案した作戦だった。

……なぜ台風が過ぎ去った後でなければならなかったのか。
それはいまだに俺にもわからないことなのだが、そのヱリカの作戦はことのほかうまくいったらしい。
親達は黄金に見惚れ狂喜乱舞していたが、俺は隣で冷静な笑みを浮かべる名探偵に惚れちまってたってわけさ……。


その後はもう、見事なハッピーエンド。
金を手に入れた親達は全員借金(まさか全員借金まみれとは驚いたが)を返しご満悦。 
碑文を説いた俺達にも何割か取り分うんぬん言ってはいたが、俺とヱリカは互いを引き会わせてくれたこの六軒島と、島で生活ができる少額がもらえればいいとそのほとんどを断った。
結果的には蔵臼叔父さん達を島から追い出す形にはなってしまったのだが、俺達にはそれだけの権利があると――彼らは快くも新島の方に住居を移してくれた。

向こうでは朱志香のやつは嘉音君とうまくいってるらしいし、真里亞もパパが帰って来てくれたとこの前手紙を送ってきてくれた。
譲治の兄貴は去年、#※ちゃんと結婚。 式には俺達も呼ばれたが、それはそれは幸せそうな夫婦に見えて微笑ましかったってもんだ。

「ま、まあなんだ……。 俺はべつに島も金ももらえなくたって、一つだけ手に入れば満足だったんだけどな! な、な~んて、いっひっひ!」

「奇遇ですね。 私もです。 戦人さんさえいてくれれば他に何もいりませんから」

「…………そ、そうか」

俺が照れ隠しでギリギリ言える愛の言葉を、隣にいるヱリカは涼しい顔でのほほんと言ってのける。
やっぱり彼女は俺よりも断然大人だ。 その余裕のある横顔からは、自分達の愛は永遠だ――と何らかの確信を得ているような達観にまで及んでいる気がするのだ……。

俺は今も思うんだ。 爺様がなんであんな碑文を残したのか。
それは報酬の黄金なんてのはあくまでオマケで――俺とヱリカのように一緒に碑文を説き、その説いた者たちに永遠に幸せになってもらいたかったのでは……なんてな。



そうして俺達はしばらく薔薇庭園を散歩して回っていると、気づいたら二人して腹の虫が鳴っているのに気が付いた。
腕につけた時計を見ると、11時30分。 昼メシにはちょいと早いが、この島では特にそこまで厳しく時間を定めてはいない。
俺達は少し早めの昼食を取ろうと、庭園内にある屋外カフェテリアにやってきた。

そこには俺達専用の二つのイスと真っ白なテーブルが据え置かれている。
丸いテーブルの上には館と繋がる内線電話が備えられており、俺はその受話器を取ると使用人に昼食を持ってきてくれるように頼むことにした。

「ヱリカ。 何か食べたいもの、あるか?」

「……そうですね。 真っ赤なトマトジュースと真っ赤なペスカトーレ。 それと戦人さんの真実の愛を赤字風味でお願いします」

「……そうか。 じゃあ俺はヱリカをメイド姿の妹プレイ風味で頼むぜ。 もちろん夜食でなッ!(キリッ) いっひっひ」

「それは昨夜ですでに食傷気味では? 私の推理するところによれば、今夜の戦人さんはこのドレス姿での魔女強姦プレイを注文なされるはずです。 あしからず 」

「………………」

こういった外で食事をする際には、館から数名の使用人が料理を運んできてくれる。
しばらくすると二人の幼い使用人がワゴンを引いて駆けつけ、俺達の頼んだ昼食をテーブルの上に配膳してくれた。

「ありがとうな、二人とも。 後は俺達が自分でやるから、館の方に戻っていいぜ」

俺がそうお礼を言うと、二人の使用人は『では失礼します』と頭を下げてその場を後にしていく。
なんせ人が少ないからできるだけ館の方に回してやらないとな……。

基本、この館の使用人は蔵臼叔父さんが住んでいた頃より少なめにしてある。
俺はかしこまった当主様って肩書きが苦手でな。 できるだけ自分達のことは自分達でやりたいと思ってるからだ。
もちろん館の規模を考えると掃除などは到底及ばないわけだから0ってわけにはいかないが、夕食などは使用人ばかりに任せず、ヱリカと二人で一緒に作る時もあるんだぜ?

「今夜の夕食は私が作りますから。 戦人さんの大好物、たくさん作ってあげますね?」

「甘いなヱリカ。 俺の大好物はもう目の前にある(キリッ)」

「…………使用人がいる時にはやめてくださいね」

そうそう。 使用人といえば一つおもしろい話がある。
実は今この右代宮家にはなんと、女の使用人が一人も仕えていないのだ。 つまりこの島に女性はヱリカ一人ということになる。

※#ちゃんが結婚し熊沢さんが御年で引退されたのはしかたないとしても、最初は俺も福音の家から送られてくる新人が男の子ばかりなことに不自然さを拭えずにはいられなかった。
なんでも夏妃叔母さんのメイドしつけがあまりに厳しすぎたため、六軒島勤務にはならないほうがいい……という噂が福音の女の子達の間で流れたせいでは――なんてのをどこかで聞いた気がするが、詳しくは忘れちまったな。

まあ、可愛いメイドさんがいないのはちょいと残念だが、今の俺にはヱリカがいる。
さっき昼食を頼む時のやりとりでもわかっただろうが、彼女は俺に合わせて色々してくれるからいたって満足しているのだ。
……ほんと、色々シテくれるんだぜ? いっひっひ♪

「戦人さん」

「は、はい!」

突然ヱリカに呼ばれ、俺はドキリとする。
いやらしい妄想をしていたのがバレたんじゃないかと慌てるが、隣にいる彼女のほうを見ると――どうやらそうではなかったらしい。

「はい。……どうぞ?」

「……おいおいヱリカ。 ほ、本気か?」

俺の顔に向かって伸ばされている、緑色の物体。 ――ブロッコリーか?
テーブルの上のサラダから摘まれたと思われるそれが、ヱリカの手にしている箸から俺の口元へとズズイと伸ばされていたのだ。
……嫌な予感。

「はい。 お口開けてください? あ~ん……」

「ヱ、ヱリカ……それはない。 それはないぜ、いくらなんでも。 いくら俺でもそれは駄目だ、ああ全然駄目だぜ。 マジで勘弁してくれないか?」

「いいじゃないですか、誰も見てませんし。 ほら、あ~ん♪ ……早くお口開けてください。ねじ込みますよ?」

俺の嫌がる(ほんとは恥ずかしいだけだが)様子を見ても、ヱリカは一歩も引かない。
あいかわらず見事な箸捌きでブロッコリーを口元へと伸ばすと、俺になんとしてもあの恋人同士の禁断のやり取りをさせずにはいられないようだった。
もちろん俺だって愛する彼女の期待にはこたえてやりたいが、こればかりははいそうですかと了承するわけにはいかないぜ……。

「なにモタモタしてるんですか。 ヱリカの愛のこもったブロッコリーですよ? ほら、ほら」

「そ、そういうのは俺は駄目なんだって! どうにも恥ずかしくなっちまって……知ってるだろ?な?」

「……ただ戦人さんが口を開けてくれないというだけで、ヱリカはこの程度のふくれっ面が可能です。 如何でしょうか、皆様方……」

いつまでも口を開けるのを渋る俺を見て、ついにヱリカはプク~とフグみたいにほっぺを膨らませてしまう。
普段は大人っぽいくせに、こういう時だけは可愛らしい子供に戻りやがるんだから卑怯だぜ……。
ちなみにこうなった彼女はとても頑固だ。 おそらく俺が口を開けるまで何十分、何時間でもこうして箸を伸ばしているにちがいない。
俺はヱリカの腕を腱鞘炎にさせないためにも、しかたなくあ~ん(照)をしていくのだった……。

「……むぐっ。 んんん」

「……どうです。 おいしいですか?」

「……ああ。 丁度いい湯で加減のブロッコリーと、それを引き立たせる甘酸っぱい薔薇ドレッシングが絶妙のバランスだ。 それでいてこの胸をくすぐるような魅惑のスパイスはなんだろうな……」

「羞恥心ですね。 戦人さんの心を虜にするため、私が先日入荷させた愛の香辛料です。 味、お気に召していただけました?」

「…………はい(/////)」

……昔、街中のカフェで同じやり取りをしていたカップルを目にしたことがあったな。
当時の俺は親父の件もあって愛なんてものはまるで信じちゃいなかったから、こいつら人前で馬鹿じゃねえかと悪態を付いたときもあったもんだ。
それがまさか数年後。 自分がそれをこうしてやる時がくるなんざ、夢にも思わなかったぜ……。

ピピピピピピピピピッ!!!

俺の顔があたりにある薔薇に負けないほど真っ赤に染められていると、突然目覚まし時計のような機械音が鳴り響いた。
俺はあわてて自分の腕時計を見る。 だがそこにはカチカチと秒針が音を立てているだけで特におかしなところはなかった。

「ごめんなさい。 私の時計からです……」

……どうやらヱリカの腕時計からだったらしいな。
彼女は自分のしている腕時計に手をやると、カチっと横のボタンを押しそのアラームを止める。
昼食の時間でも設定していたのか? と考えたところで、俺の頭にある記憶が強烈に蘇る。

「……そういえばヱリカ。 おまえ、そのアラーム毎日鳴らしてるよな? いったいなんのアラームなんだったっけか?」

「……気にしないで下さい。 なんてことない、ですから」

俺の問いにヱリカは答えない。 それは本当になんてことない、ささいなことだから答えなかったのかもしれないが……俺にはどうにも引っかかる何かを感じた。

俺の記憶が正しければ、ヱリカはこのお昼の12時と――たしか深夜の0時。 その二回にこの腕時計のアラームを設定していたはずだ。
いつも夜ヱリカと愛し合う前にピピピピ鳴っていたから憶えている。 そう、たしかそうだったはずだ。

けれどもそこまで思い出したとき、俺の頭の中に強烈な違和感が湧き出してくる。
……おかしいよな。 
毎日かかさず二回も鳴っているほどのアラームなら、なんで俺は今さらこんな質問をヱリカにしちまってるんだ?

俺とヱリカはもう一年近くこの島で一緒に暮らしている。
それならばとっくに俺は今の質問を過去にしていて、すでにその答えを得ていなければおかしいはずなんだが……。
いちおう言っておくが、前に聞いたことはあるがただ単に俺がそれを忘れちまってる――なんてことは無いはずだぜ。 俺はヱリカのことに関しては絶対に忘れないはずだからな。

まるで記憶がそこだけ欠損しているような、おかしな記憶喪失――。
たかが腕時計のアラーム一つが、俺の心と身体に警告を発しているかのような大げさなものまで感じてしまう。
――左手の薬指が、燃えるように熱い。

「戦人さん戦人さん」

俺が果てない思考の海に旅立っていることに気がついたのか、ヱリカはクイクイと俺の服の袖を引っ張ってくる。
下から上目づかいで覗き込んでくるまなざしはあいかわらず眩しい。 天使そのものだ。 俺の愛するヱリカの可愛らしい顔がそこにあるだけ。

――――なのになんで俺はこんなにも、この顔に薄気味悪さを感じちまうんだ?

「ん……な、なんだ? で、結局そのアラームは」

「…………復唱要求」







「………………ッ!!!」

ヱリカのその言葉が、まるで合言葉のように俺の身体に吸い込まれていく。
一つ一つの単語が脳天をグシャリと突き抜け、そのまま下に向かって全身を駆け巡っていく――身体中で一斉に何かが弾け飛んだ。
頭、耳、両目、両腕、両足――そして左手の薬指を中心にバチバチと電撃を浴びせられるような耐え難い痛みが縦横無尽に駆け巡った。

『お父様……きっと、きっとかならず助けに参ります。 それまでどうか心を守って……壊されないで……』

初めて聞いたはずなのに、よく知っている女の声。 とても懐かしい響き。 それを聞いた瞬間、俺の頭の中で走馬灯のように数々の記憶が蘇ってくる。
ああなんで……なんで俺はいつもいつも、こんな大切なことを忘れちまってるんだ……。

碑文の中の伝説でしかなかった、ベアトリーチェ。 それが『俺のベアトリーチェ』へと変わっていく。

親父達は幸せになってなんかいない。 金だけで解決する惨劇ならとっくに全ては終わってる。
黄金が見つかろうが見つからなかろうが、親達はあの日あの島で――殺し合いを始める。
譲治の兄貴も朱志香も真里亞も――殺されていく。 無慈悲に。 冷酷に。 ――残酷に。 

「う……頭、痛ぇ……」

目が覚めるとそこは薔薇庭園。 あたりにはあの日と同じように綺麗な薔薇達が咲き誇っている。
俺はイスに座り昼食をとっているようだった。 目の前のテーブルには数々の料理が並んでいる。
どれも美味そうに湯気を立ててはいるが、今の俺はとてもじゃないが食う気にはなれない。
――なぜかだって? あたりまえだ。

「大丈夫ですか……?」

俺の隣には――古戸ヱリカがいた。
俺と同じようにイスに座り、妻のように甲斐甲斐しく付き添う――偽りの配偶者がそこに存在した。

「ヱ…………ヱリカああぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁッッッ!!!」

その顔を見た瞬間、俺の中で急激に沸いた怒りが爆発する。――彼女の胸元を乱暴に掴みあげる。

「……こんにちは、戦人さん。 12時間ぶりですね」

掴みあげられたドレスの胸元がしわくちゃになる。 しかしヱリカはそれに気にする素振りも見せず、ただジっと俺の顔だけを見つめ返す。 つぶらな瞳が余計、癪に障った。 

「て、てめえぇぇぇええええええええぁぁぁぁあああぁぁぁああああぁッッッ!!!」

「グッド。 その私を見る目つき、怒声……ああ、ゾクゾクします。 愛しています、戦人さん……」

俺が激昂するのにも怯まず、だが、だからといって馬鹿にしているというわけでもなく――ヱリカは掴まれた胸倉にスっと手をやると、俺の手を愛おしそうに撫でた。
夫が妻に掴みかかる。 およそ愛する者同士がする行いではないというのに、まるでこうして敵意を向けられることすら彼女にとっては幸福なようだった。
――自分を見てもらっていることに、変わりはないから。

「あ、愛していますッ、だと……お、おまえ、どういう面して言ってんだッ! なあ答えろヱリカァァァッ!!!」

「そういえば、さっき言ってくれましたね。 ……大好物が私だって。 なんなら今ここで食べてくださっても結構ですよ? 
ああ、むしろ今すぐヱリカを犯してください、ハァハァばとらさぁんぅぅ……」 

噛み合わない会話――だが、その言葉はたしかにさきほど俺が言った言葉でもあるので間違ってはいなかった。
しいて言えば、今はもう俺とヱリカは夫婦ではないが。 『今だけ』。

「ああ、はやく、はやくヱリカを犯してください……。 昨夜のように激しく、乱暴に、強欲に。 戦人さんのモノにしてください……」

「……ッ!? こ、こいつ……!?」

気持ちの悪い猫なで声をあげながら、ヱリカは俺の掴みかかった指先にピチャリピチャリと舌先を絡めてくる。 その表情はあきらかに朱に染まり、俺への淫らな欲情に満たされていた。
おもわずその顔を殴りつけてやりたい衝動に駆られるが、それはできない。 俺の中の何かがそんなことをしても無駄だと自分に言い聞かせてくるのだ。
大切な時間を無駄にするな――自分への警告と戒めを発令する。

「ああでも……お時間、大丈夫ですか? もう、2分も経ちましたけど……?」

「……ッ!? く……くそったれがああぁああああああああああああああッッッ!!!」

俺は激昂する。 ――ヱリカを殴りつけるため? ちがうッ! 
俺が次に起こした行動は、逆にヱリカの胸倉を突き離すという正反対のものだった。
俺はすぐさま座っていたイスを立ち上がる。 ――身体のどこかがヱリカとぶつかった。
だが俺はかまわず自分の左手の手のひらを、目の前のテーブルの上にバチンと押し付ける。
そこには今だけ輝きを失った苦々しい指輪が、俺の薬指に深く齧り付いていた。

「………痛いッ……」

……俺の悲鳴ではない。
さきほどイスを立ち上がった拍子に俺は、図らずもヱリカを土むき出しの硬い地面へ突き飛ばしてしまっていたようだ。
見るとそこにはさきほどまで愛していた女が、まるでレイプされた直後のように無残に転がっていた。

「戦人さん……ひ、ひどい。 うぅぅ……」

倒れた拍子にどこか怪我でもしたらしい。 ヱリカは今にも零れそうな涙目で俺を非難する。
向けられてくる捨てられた子猫のような瞳――俺に一瞬、彼女への罪悪感を呼び起こさせる。
だが今の俺には、ヱリカに優しくしてやれる義理も余裕もなかった。

「く……ど、どいてろヱリカッ! ち、ちきしょうちきしょう、あと何分だ何分だ何分だ……」

「ああ……ど、どうして? どうしてですか戦人さん! さっきまで私のこと、あんなに愛してくれたじゃないですか? あんなに優しくしてくれたじゃないですか? そ、それがどうしてぇぇ……」

「だ、黙ってろッ!!! ああくそくそくそもう時間がねえぇぇぇぇッ!!!」

すがり付いてくるヱリカの声に苛立ちすら覚えながら、俺はようやく――本当にようやく自分の薬指へと手をかけていく。
だが、もはや致命的なタイムロス――腕時計の針はもう12時4分を差していた。
ってことはつまり、俺はあと数分足らずでこいつを抜かなきゃならないってわけだこのくそったれがッ!!!
右手の親指と人指し指――今の俺にとっては唯一の武器であるそれらで忌々しい指輪を挟み込み、まさに己の人生を懸けて『ソレ』を外そうとする……が。

「ぐううぅぅぅ……か、硬ぇ!ぬ、抜けねえぇぇぇぇ、くそくそくそッ!!!」

……抜けない。 顔が真っ赤になるほど力を入れているというのに、薬指の『ソレ』はまるでビクともしないのだ。
――それはそうだ。 そう簡単に抜けるのならば、『昨日までの俺』がとっくにやっている。
そもそもこの魔女の指輪は本当に抜けるものなのか? 何か魔力のようなもので絶対に抜けなくなっているのかもしれないと考えると、激しい絶望感が俺を襲った。
俺はひょっとしたら毎日毎晩、自分の指を痛めつけるという無駄な行為をただ日課のように繰り返しているだけかもしれないのだ……。

「く、くそったれ……抜けねぇぇッ!!! こんな指輪一つで、もう一年もこいつと……」

地面に転がっているヱリカに目を向けながら、俺は思い出す。 毎日毎日、日ごとに幸せを積み重ねていったヱリカとの夫婦生活を。
そして更に思い出す。 毎日毎日、こうして12時間ごとに指輪を外そうともがき苦しんできた拷問生活を……。
しかもなんだ……? 今の俺は、一年と口にしたのか? ヱリカとの夫婦生活を?
もう一年もこのヱリカと、相思相愛の夫婦として仲睦まじく暮らしてきたってのかよ……笑えねぇ。

「エ、ヱリカ……」

胸から沸々と沸いてくる絶望感に浸りながら、俺はさきほど突き飛ばしてしまったヱリカをふたたび見る。
どうやら軽く足を挫いてしまっているようで、彼女は懸命にその場を立ち上がろうともがいていた。
その痛々しい様子を見るだけで俺の中に手を貸してやりたい。 今すぐ彼女を抱きかかえてやりたい、という矛盾したきもちが沸いてくる。
それは間違いなく――愛。 一年間彼女と過ごしたゆえに育まれてしまった、右代宮ヱリカへの愛情だった。

「ば、戦人さん……?」

ヱリカはようやく地面から自力で立ち上がると、俺の視線に気づいたのかすがるような瞳を投げかけてくる。 そしてその視線は一点に――俺の薬指へと注がれていた。

「戦人さん……抜けました? え、え、指輪抜けちゃいました……? そんな……ぬ、抜けてないですよね?ねぇ?ねぇ?ねぇッ!?!?」

ちょっとやそっとのことでは抜けないことなど彼女が一番よく知っているだろうに――ヱリカはひどく心配そうな顔で俺の元へヨタヨタ駆け寄ってくる。
挫いた足を懸命に動かしながら、一生懸命歩く姿が痛々しい。 そうまでして俺の指輪が抜けていないことを――俺達の愛が終わっていないことを確認したいのか。
俺は自分の薬指をヱリカに見せつけながら、つぶやく。 

「抜けて……ねぇよ。 くそったれが……」

そこにはさきほどと寸分たがわぬ場所に填まっている指輪があった。 備えられている宝石は徐々に輝きを取り戻しているように見える。
おそらくもう数分もすれば俺はまた魔法の毒が身体中に回り、ヱリカを愛する奴隷にされるのだろう。 ――もう、時間が無い。

「ああ……あぁ、よかった、よかったぁぁぁ。 戦人さんとの愛はまだ生きているんですね。 うぅぅ……」

「エ、ヱリカ……おまえ……」

ヱリカはそう心底安心したように涙を流すと、俺の指輪が填まっている薬指を手に取った。 そして愛おしそうにその指先をピチャピチャと舐め始めるのだ。
かと思うと今度はそれを口にチュポリと咥えこみ、チュゥチュゥとおいしそうに吸い付いていく。
まるで男性器を愛撫するかのようなヱリカのその仕草に、俺は彼女の愛がもはや狂気の域にまで達してしまっていることを知る……。

「お、おまえ、何してんだ……ヱリカ」

「ね、ね、戦人さん、じゃあこうしましょう? ん、こうすれば、抜けるかも……こうやって唾液で濡らせば、ヌメって……ほぉら、抜けるようになるかもぉぉ……」

ジュポリと深く口に咥えられる俺の薬指。 それをヱリカはジュポジュポとフェラをするように飲み込んでいく。
彼女はこの指輪を抜こうとしているのか? これを填めさせているのは、自分だというのに?
指輪を留まらせ、俺を離したくないという愛情――指輪を外し、俺を解放してやりたいという愛情。
その二つの矛盾しつつも共存した偏愛ともいうべき狂気が、今のヱリカの顔には宿っているように思えた……。

「ああ戦人さん、戦人さん愛しています。 助けてあげたい開放してあげたい……だからずっとここにいてくださいね……?」

「お、おまえ……イ、イカれてる、ぜ。 完璧に……」

「ん……あ、あたりまえです。 頭がおかしくならずに、ヒトなんて……愛せません……ん、ん、ん」

泣き笑いともいうべき顔をしながら、ヱリカは俺の指を更に愛撫していく。 それがもしペニスであったなら俺はすでに達していたであろう激しさで。
こんな彼女の顔を見るのは、おそらくあの日以来。 俺とヱリカがまだ敵同士であったあの頃だろう……。


――――俺はヱリカとのゲームに、負けた。


ベアトのゲームを引き継ぎゲームマスターになった俺は無限の魔術師の名を継承し、探偵であるヱリカと六軒島の事件についてファンタジーとミステリーを巡る戦いをしたのだ。
……だが、結果は俺の惨敗。 俺は自ら作りあげてしまった密室によってロジックエラーに陥り、真実の魔女―ヱリカとの婚約を余儀なくされた。
もっともそれはあくまで魔女流の婚約だ。 指輪を填めたものを一生奴隷とする、禁断の夫婦契約。


――――誰も助けには来なかった。 縁寿もベアトも……あの子も。


式場に出席していたロノウェやワルギリア、ガァプの三人は最後まで俺を助けようとしてくれたらしいのだが、あまりに相手が悪すぎた。
ヱリカだけでなく、ベルンカステルやラムダデルタ三人の魔女相手では彼らだけでは到底太刀打ちできるはずもなかったのだ……。

そして式の最後、俺はこの身に楔を打ち込まれる。 絶対に抗えない――真紅の楔を。
数々のニンゲンの夫婦がするのと同じように、俺は左手の薬指に血のように真っ赤なダイヤモンドを填められたのだ。
それは俺がヱリカと夫婦になったという証であり、彼女の夫に『された』という真実。 
そしてそこからはもう、一切の記憶がおぼろげになる。 おそらく指輪の魔力によって俺は生ける人形にされてしまったのだろう。
だが、かすかに――薄っすらとではあるが、指輪を填められた直後の記憶が俺の中に残っていた……。

『……そのままにしたい? 戦人を?』

『はい、我が主……』

魔女ベルンカステル。 そしてヱリカの声だけが俺の頭の中に響く。
敗者である俺には彼女達の会話をただ耳に受け止めることしかできない……。

『戦人さんをこのまま……ニンゲンのままで私の夫としたいのです。 それは可能ですか?』

『……可能は可能だけど、かなり危険ね。 指輪の力で抑え付けるとはいえ、この男はこれでも強力な対魔法抵抗力を持っている。 だからこそ心を取り外し、器だけの人形にするの。 
それがヒトのままになんかしたら、永遠に続くはずの指輪の効果がいつ切れてもおかしくないわね』

『……指輪の効果が切れたらどうなりますか?』

『当然、正気に戻るわ。 ベアトのことも指輪のこともあんたのことも、この男はその時全てを思い出すでしょうね。 そしてその時は、おそらく目の前にいるであろう元凶のあんたに――襲いかかる』

『…………それでもかまいません。 そうした場合、指輪の効果はどれほど保ちますか?』

『……物好きね、あんたも。 まあそんなことをした魔女なんて聞いたことないからわからないけれど、おそらく一年、半年、一月? ……いや、この男なら半日もあれば自我を取り戻すかもしれないわね』

『半日、ですか。 ……12時間』

『そう、たったの12時間。 私達百年を生きるのが当たり前の魔女にとっては、まばたき一度すらの価値も無いクズ時間ね。 …………本気?』

『……せっかく頂いた褒美を穢してしまい、申し訳ありません我が主。 ……理由は聞かないでください』

『興味ないわ、そんなの。 どうせこの男とこの島はもうあんたのものなんだから、私が口出しすることでもないしね。 …………で、どこがいいの?』

『…………………』

『クスクスクス、冗談よ。 まあ、私は新しいゲーム盤でも探しにいくことにするわ。 もし気が向いたら島に遊びに来てあげる。 その時は是非、子供の顔でも見せてね? クスクスクスクス……』

そうして魔女ベルンカステルは、新しい楽しみができたとつぶやきながら俺とヱリカの前から姿を消した。
誰もいないその魔法空間には、ヱリカだけが取り残される。

『戦人さん……』

ガラスのような瞳で立ちつくしている俺の頬を、ヱリカはとても愛おしそうに撫でてくる。 その顔は念願かなった妻の表情そのものだ。
そして俺はこの日より、ヱリカの密室に閉じ込められることになる。 愛の鎖で捕らえて離さない、逃がさない――彼女の作り出した六軒島という密室に。




                     『右代宮戦人さん。 あなたは永遠に……私のモノです』







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