浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問18


問
 絶対の悪性を教えられた覚如上人の御言葉とその出典を書きなさい。
答
 「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということ
 なし」                      (口伝鈔)

平成16年6月19日(土) 大塚出張所(茗荷谷)
教学講義 講師:中根繁会長
「三業」とは、身口意の三業の事。
「業」とは、サンスクリット、梵語で「カルマ」と言う。

大小を論ぜずの「大」とは、悪人。「小」は悪い事をあまりしていない善
人という事。

「大小を論ぜず」とは、どちらが悪人で、どちらが善人か、という事を論
じても意味がないという事。

中根先生の御本では、富士山の麓で、土筆が背比べをしていても、富士山
から見れば、どちらも小さいに変わらない。土筆の世界だけで、背の高い
低いを論じていても意味がない。

人間が互いに善人・悪人を論じていても、阿弥陀仏の御眼から御覧になれ
ば、全ての人が悪人である。

その悪人同士が、人間の世界で、「お前よりも俺の方がましだ」と言って
いるのは、馬鹿げている。
意味がない事。

聖人は、ご自身の事を「愛欲の広海に沈没して」と仰っているが、このお
言葉を聞いて非難する者は馬鹿者。その非難している者も、聖人と同じ、
愛欲の広海に沈没している。だから、非難できない。

「もとより」とは、無始からという事。

絶対の悪性とは、比較するものがないという事。最高のものという事。

この世のものは、全てが相対的なもの。相対的なものは、比較するものに
よって、価値が変化する。

どんな悪人でも、その悪人以上の悪を造っている者と比べたら、大した悪
人ではなくなる。

「相対」とは、有限であり、不完全という事。
「絶対」は、無限であり、完全という事。

この絶対の世界は、相対世界である、この世の中ではありえない。

その絶対の世界に救われた体験が、信心決定の世界。

これを聖人は、教行信証信巻の中で「「横超」とは、即ち願成就一実円満
之真教・真宗是れなり」と教えられた。

「一」も絶対。「実」も絶対。「円満」も欠け目が無いという事で、完
全、絶対。「真教」は、真実の教えという事。「真宗」は、真実の宗教と
いう事で、絶対であるという事を繰り返し教えておられる。

相対の世界の住人である人間に、絶対の世界を教えようとしても難しい。

比較してしか認識できない人間の認識レベルに合わせて説かれたのが極楽
世界の荘厳。

経典の極楽の荘厳は、お釈迦様がお話をされていた相手がインド人だった
為。

インドは、熱い気温の国なので、「高台に宮殿が建っていて、涼やかな風
が吹き、下には綺麗な水を湛えた池がある」と説かれた。

インド人が、このお話を聞けば「極楽に往きたい」という気持ちが起き
る。

お釈迦様は、当時のインド人にとって魅力的な印象を与えられる事を目的
にして経典にあるような極楽を説かれた。

もし、日本人に極楽の説明をする場合は、炬燵があって、いつもポカポカ
と暖かくて、「蜜柑を食べたいな」と思ったら、どこからともなく蜜柑が
現れて、自然に皮が剥けて、口にポンッと入ってくれる。

これをインド人がされても、余計に暑いので、往きたい心は起きない。

猫にもし、極楽の説明をされる場合ならば、「極楽の宮殿楼閣は、皆、鰹
節。」と説かれただろう。

すると、猫も「極楽に往きたいニャー」という心を起こして、「ニャムア
ミダブツ…」と称える。


Q.聴聞・開顕・勤行は、善い行為だと思いますが、「三業みな罪にあら
ずということなし」というお言葉との矛盾を感じます。

A.人間の行ないにも、身・口業そのものが悪である事と、身・口業は善
行をやりながら、その善行をやる事によって、善果を期待する心が罪であ
る。

阿弥陀仏以外の仏・菩薩・神々に向かって行なう行為を「雑行」と言う。
これは、三業の全てが間違っている。

阿弥陀仏に向かって行なう善行を「正行」と言う。これは、身業や口業は
正しい行いだが、意業が不純な為に純粋な善とはみなされない。

この心は、「これだけ善い事をしているのだから、報土には生まれなかっ
たとしても、化土には生まれさせて頂けるだろう」とか、「これだけ善を
行なっているのだから、極楽に生まれられなかったとしても、地獄には堕
ちんだろう」という心。これは「雑修」と言う心。

蓮如上人は、「雑行雑修自力の心をふり捨てよ」と仰るが、この雑行・雑
修・自力の心があっては救われないので、捨てなければならない。

このお言葉通り、一生懸命善を行なって、雑行・雑修・自力の心を捨てよ
うとしてゆくのが求道。

そうすると、捨て切れない自己を知らされる時がある。この時が、信心決
定した時。

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問
罪に大小ないことを教えられた聖教と、その文句を示せ。
答
もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし。(口伝鈔)
解説
・出題の意義――君ほど悪人ではない、という人を破邪する為。
・罪体の凡夫――罪のかたまりの人間。
・三業――身口意の三業。

問
「罪に大小なし」と教えられたお言葉と、その根拠
を示せ。
答
○もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず三業みな罪
 にあらずということなし。
                 (口伝鈔)

汝自身を知れ(九)

 会 長 中 根  繁

・・・
 覚如上人はかかる我々の真実
の姿を口伝鈔に「もとより罪体
の凡夫、大小を論ぜず、三業み
な罪にあらずということなし」と
教悔なさった。         ←教悔 は、教誨 だろ
 「大小を論ぜず」とは罪に大
小は無いということである。
 蚤と虱が背比べをして背の高
さを自慢しあっても意味はない。
大象の目から見れば彼等に差など
無いからである。
 富士の裾野で土筆どおしが背比
べをしてもこれもまた意味はな
い。富士山から見れば彼等に差な
ど無いからである。
 丁度そのように愚かな知恵し
か持たない小さな人間どおしが法
律や道徳倫理の目で以て善悪の差
別をし、罪の大小を論じていて
も意味はない。
 仏から御覧になれば人間に善
悪の差など無いからである。皆極
重の悪人であり、身、口、意の
三業で常に罪を造り続ける罪体の
凡夫なのである。
・・・

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最終更新:2010年10月23日 18:54